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2021年9月第5週の音楽

Apple Music で毎週火曜日に更新されるフェイバリット・ミックスをさらして由なく書く。
マンネリング。

傾向が定まってきて少しつまらんですな。
マンネリ気味。

相変わらず、YMO関係と渋谷系関係。
この二者に含まれないものは、CAPSULEずっと真夜中でいいのに。サカナクションか。CAPSULEとサカナクションはちょっと気が進まない。この3つの中からは、ずっと真夜中でいいのに。だけにして、プラス 細野晴臣を取り上げよう。

公式のYouTubeへのリンクを貼っときます。

「夜しか夜遊びできないのでずっと真夜中でいいのに。」の三強の一角、ずっと真夜中でいいのに。については、若人が充分に知っているだろうし、俺が話せることはほとんどない。むしろ口にすることで無知をさらけ出すことになるのはわかっている。けどね、いちおじいさん目線で言えることはあると思うのよ。

同年配の奴と話をしているときだ。話の中で「最近のあのあたりの音楽ってピンとこないんだよね」って彼は言った。俺にはその「ピンとこない」が今ひとつピンとこなかったんだけど、それでもなんとなく言いたいことはわかった。そいつもうまく説明できないらしく、それ以上話は膨らまなかったが、最後に言った「若い人には音楽もただの表現のひとつに過ぎないのかなぁ」が印象に残っている。なんて書き方をすると遠い昔のようだが、ここ一年半の最近のことだ。音楽が表現のひとつなのは、別に今に始まったことではなく、昔からそうだし、「なに言ってんだ?」と思う。 そんなことは本人もわかっているはずなのだ。だからこそ、言外に込められた〈なにか〉があるに違いないと思う。
ボカロ系(と乱暴にくくって申し訳ない。適切な言葉が見つからない)に共通するのは、そもそもの作品の発表媒体、その媒体の特質である動画と切り離すことができない。というのが、俺の仮説。つまり、これらの音楽は音楽単体として聴くことはできる。実際、出来もかなりいい。しかし、真価を発揮するのは、音楽とセットになった動画とともに聴いた/観たときじゃないかと思うのだ。「音楽は表現のひとつ」というのはまさにこのことを言っている気がする。答え合わせを近いうちにしたい。

(これ、ひとつの記事で独立させてもよかったかも。)

※※

ロック(ンロール)の創始者のひとり、リトル・リチャードの代表作(のひとつ)、Tutti Fruttiを細野晴臣がカバーしたのがこれ。細野晴臣は昔からお気に入りのこの曲を何回もカバーしているので、カバー自体は目新しくない。

一聴してわかるが、オリジナルと同じ曲に思えず、びっくりする。Tutti Frutti は、誰でも一度は聞いたことがあるロックンロールの名曲だが、細野のそれは「もしオリジナルのオリジナルがあるとすればこんな曲だったのではないか」と思ってしまう。

調べたところ、以下の記事を見つけた。

この記事によると、リトル・リチャードの『Tutti Frutti』の元ネタをカバーしたとのこと。なるほど。違っていて当然でした。

同アルバムから紹介したいのがある。
ご存知の方も多いかもしれない。
NHK Eテレ 2355のテーマ曲『2355氏、帰る』
疲れたときにこっそり微笑んでひと休み。

※※※

機会があれば、思い出波止場SEAGULL SCREAMING KISS HER KISS HERも取り上げたいなあ。

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