「東京 群集」コンセプト
DANROの記事「人間は恐ろしい」 人嫌いの50代写真家がそれでも「群集写真」を撮るワケ から検索で来られた方、ありがとうございます。
昨年『東京 群集』のZineを作った際に書いたあとがきをここに掲載します。補完として読んでいただければ幸いです。
群集はどこから来て、どこに集まり、どこに帰るのか?
そんなトーキョーの生態系を各地で観察した。
トーキョーの群集はフシギである。
山手線という駅間距離がとても短い電車のひと駅が違えば、そこに集まる“人種”もすべて異なっているという、多分他の国に類を見ないであろう特徴がある。
群集は日々自分らの“人種”にフィットした街やイベントを目指し、野生動物の大群のようにひとところに群れにくる。
オレのようなネイティブトーキョー育ちとしても、それはとてもストレンジでキュリアスなことだと常々感じていた。
制作動機
2018年夏、群集を撮ってみようと思った。
FacebookやInstagram、Twitterにnote、自分の作品はSNSで積極的に発表し続けているが、ライフワークである “シンヤノハイカイ” シリーズなどを出してみても、セケンが喜ぶ絵ではないから反応の数など知れている。
ではどんな絵が魅力的に映るのだろう?と探った感じでは、やはりヒトが写っている絵でないといろんな意味でセケンには受け入れられないのかな?と。
しかしオレはヒトが苦手だ。ヒトなんてあんな恐ろしいモノよく撮れるな!と他人の写真を見て思ってるくらいだ。そんな人間がインスタ映えするような美人やイケメンなど撮れるわけもなく、考えあぐねて「群集」というパワフルでワンダーなヒトビトの姿を撮ったらよいのでは?と思い至った。
さらに加えてオレは人混みも嫌いだ。特に花火大会などの非日常的なイベントに集まる人混みは積極的に避けてきた。
それがなぜ突然群集撮影に目覚めたのか?
311以降、デモなどの巨大群集の中に入って何度も撮影していたことがある。国会前を埋め尽くす人々の群れをかき分けながら撮影することには慣れていた。ある意味報道的な感覚で臨めば、苦手なヒトの群集も撮れるかもしれない。
ではどこに群集がいるのか?と乏しいイベント知識をサーチし、それまで1mmも興味などなかった浅草サンバカーニバルや高円寺阿波おどりなど、酷暑の炎天下にあえて群集の中に潜っていった。
撮影スタイル
今回のシリーズを制作するには、群集の間近まで迫り、一脚に着けたカメラを高く掲げ、モニターに表示させた電子水準器で水平垂直に気を配り、超広角レンズを用いて撮影した。見せたいのは群集の客観的観測であるので、あがった素材では歪んだパースをさらに調整した。
超広角レンズゆえに苦労もある。密度が低めの賑わいの中を歩いていて「あっちに群集がいるぞ!」と見つけそちらに進んで行くも、その群集はまるで逃げ水のようにいつまでも辿りつけなかったりする。
そんな場合は望遠ぎみのレンズで撮れば「圧縮効果」で簡単に撮れるのだが、それでは楽をしてしまう。群集の群集たる迫真の姿を捉えるために、あえて接近+超広角を基本とした。
撮影時のチェックでは、手前がまばらで遠くにいる群集が小さく写っているだけに見えてがっかりするのだが、帰宅後モニターで拡大して見ると、奥にいる群集のすごさがしっかり写っていたりする。現場での自分のビジョンが正しかったことに安堵すると共に、それはメインで使っているレンズが極めて優れているからに他ならない。
撮影エリアは、自分の行動と経済の範囲を考え、東京23区のみとしている。越境すれば限りがなくなるので、多摩地区にも横浜にも埼玉にも行かないことにしている。
「群集」表記について
制作を進めるにあたってタイトルを「群衆」か「群集」のどちらの表記にするか迷った。
辞書によると、「群衆」は人の集まりに用いるが、「群集」は動植物などの集まりに用いられるとのことだ。
このシリーズではインサイドに入っているようで実はアウトサイドの視点だし、現場では群集の構成員らとコミュニケーションをとることは全くしない。あの渋谷ハロウィンでさえ、個人を撮ることはしなかった。仮装姿をすすんで撮ってもらいたがる群集構成員がゴマンといるにもかかわらず。
そんな理由もあって、突き放した視点の「群集」表記を選んだ。
モノクロにした理由
プライベートで撮る写真、とりわけ日中に撮る絵は、自分でも何を見せたいのかわからないことがある。そんな駄作をある時モノクロに変換してみたら自分の中の何かとフィットした。生きづらい人間であるオレには、昼間の情景は色味のない世界として見ているのかもしれない。増してや「群集」観察である。モノクロームでこそオレの見せたいビジョンなのだ。
逆に誰もいない深夜は「明日のパワーをチャージするタイムゾーン」というポジティブな考えでいるので、肉眼では見えない色彩を明るく色鮮やかに浮き彫りにする、というスタンスだ。
シンヤノハイカイ(2007)
東京 野良桜(2018)
おわりに
この作品の着想のひとつに、先達である土田ヒロミ氏の「砂を数える」シリーズがある。日本のどこかの空間に「地中から湧き現れ出した」群衆を、遠くから引いた目で眺めた絵は確かに砂つぶのようで、その概念が好きだった。
氏は昭和から群衆を撮り続け、平成に変わった頃に日本の群衆が変わった、と感じたそうだ。それまでの「一つのベクトルの方向へ動くことがなくなった。互いに距離をとって群れる」ようになった、と。
しかし、ネットの時代になり平成も終わる今、SNS映え至上主義がはびこる状況では、ここに示したように巨大化した「群集」を簡単に見つけることができた。かつてはテレビやラジオが群集を扇動していたが、21世紀には限りなく拡がる口コミネットワークという原始的な扇動に戻ったのかもしれない。
この「東京 群集」シリーズは、背景が東京とわかる場所を選んで撮影してきた。オレが生まれ育ったトーキョーの「典景」を求めてきたのだ。それはアニメの背景画に近い感覚であると思う。
制作を始めてまだ1/3年程だが、1年通してまとめれば、ある意味現代「東京歳時記」になるのかもしれない。
2018年12月
フォトグラファー 小野寺宏友
追記2019年秋
こういうことを1年前に書いていて、『東京 群集』のキモはBeatlesの『エリナー・リグビー』の歌詞にあるじゃん!と、先日と気づきました。
All the lonely people
Where do they all come from?
All the lonely people
Where do they all belong?
群集はどこから来て、どこに属しているのか?
さらに追記 2020年夏
2020年、新型コロナウィルスCOVID-19の猛威が全世界を覆い、人々は外出を制限され各種イベントは中止、繁華街は軒並み休業、トーキョーから群集が消えた…
あまりにも急激に失われた普通の情景。今までは群集を捉えるのがメインゆえ色情報を抜いたことをコンセプトとしてきたが、世界からここまで精彩が消えてしまうと逆に色情報を復活させることで "かつてのトーキョーの活気" を浮かび上がらせることにした。
ReMaster 2020と銘打って、1、2年前に撮影したイベントと同日に撮影RAWデータをカラー化させた絵を徐々にアップしている。それまでインスタグラム投稿を意識して1:2のパノラマサイズにしていた絵も、ReMasterであるからノートリミングとした。
人々と接触することが憚られる今に見返すと、密集しきった群集は恐怖すら覚える。わずか半年に慣らされた新しい習慣というものは恐ろしい。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
『東京 群集』はこちらにまとめてアップしてあります。
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