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羽虫

気づくと2年前の話になっている。2021年。当時18歳。
わたしはそのころ、北海道旭川市のウィークリーマンションにひとりで住んでいた。
なんとなく、漫然と大学を受けて、そして落ちた年。
その8月。

夏が来て、わたしは据え付けられたエアコンを24時間最大に動かし部屋をキンキンに冷やしていた。
そしてその中で長いこと寝たきりで過ごしていた。
ほかにすることも、すべきことも、できることもなかったので、とくに問題はなかった。

朝が来て、夜が来て、寝たきりのまま時間感覚も喪失し、部屋はわたしと関係なく暗くなったり明るくなったりした。

いつも通り部屋の電気もつけず、真っ暗な中でスマホを見ていると、その光に誘われて、小さな羽虫が一匹、ふらふら寄ってきた。
潰す元気もないので放っておいた。

そうして羽虫が部屋の中にいることを知った。

わたしが身体を起こし、しぶしぶ食品を摂取するような時も、羽虫はなぜかわざわざ寄ってきて食器の縁を撫でていた。不潔だ。

わたしが鼻をかんでティッシュを丸めて捨てれば、今度はそちらに寄っていく。不潔だ。

昼間はどこにいるんだかわからないのに、夜になると決まってスマホの画面に寄ってきた。不潔だ。
鬱陶しくて仕方がないが、やはりどうこうする元気もなかった。

そんな日が、おそらく数日続いたと思う。

ほとんど寝たきりで過ごしていたが、ついに頭皮の痒みが耐え難いものになったある朝、わたしは入浴することにした。

理由はないが、浴槽にお湯を張ることにした。
風呂場の蛇口をひねり開け、ベッドに戻った。

お湯の溜まっていくごーっという音がして、わたしは30分も目を見開いたまま、ベッドで天井を見上げていた。
だんだん音が鈍くなっていって、お湯が溜まったことが分かる。

重い身体を引きずり、浴槽の様子を見に行く。
からりと風呂場の軽い扉を押し開けると、浴槽にはほぼいっぱいに水が溜まっていた。蛇口をひねり、水を止めた。

浴槽に何かひとつ、小さいごみのようなものが浮いているのが目についた。
眼鏡をかけていなかったので、顔を寄せてじっと見た。

羽虫が浮いていた。

わたしは、なぜかそのまま立ちつくした。
溺れ、死に、動かなくなり、力なく浮かぶ羽虫を見ていた。

羽虫の体が水を弾いて、滑らかな水面に一つだけ小さな窪みをつくっていた。





一匹だけではなかったのかもしれない。羽虫の繁殖は早いはずだ。


しかし結局その後、夜のスマホの光に、なにも訪れることはなかった。
食事をしても、鼻をかんでも、なにも訪れない。
朝も夜も。





どうしようもなくなったわたしは、風呂に入り、身体を洗い、石鹸で脂を洗い落とし、髪を乾かした。

そしてまた、大学を受けることに決めた。
勉強することに決めた。


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