フェミ対オタクの構図は依然として「<お気持ち>対<表現の自由>」です

青識亜論氏の「『萌え絵批判』はなぜ燃えるのか――私たちが怒る本当の理由」https://note.com/dokuninjin7/n/n7ce1f56328e5を読みました。

「なぜオタクは萌え絵批判に怒るのか」という視点は、萌え絵論争における大元でありながら誰も言語化しようとしてこなかった要素であり、この切り口の創出は非常に意義あるものです。

この視点は私自身形象化できていなかった怒りの構造を初めて認識できたようで胸のすく思いです。

しかしながら、フェミ対オタクの表現をめぐる戦いは「お気持ち対お気持ち」である、とする意見には賛同できかねます。

この部分についてはどうしても反論しておきたかったため、オタクも逃げずにお気持ち表明していこう、とする論旨から逸れていることを承知の上で筆をとった次第です。

はじめに

青識氏のおっしゃる通り、広告に対する批判は表現の自由の範疇です。

公共萌え絵問題は例えば2010年の都条例改正の時のような法規制によって表現の自由という権利が直接脅かされる切迫した事態ではありません。

その意味で表現の自由を標榜することの違和感は私も同意します。

しかしフェミニストの批判は、その手法に問題があります。

そしてその手法は表現の自由を侵すと言うに足るものであると考えます。

またこの議題には「広告には公共性があり、表現の自由は制限される」という共通認識がありますが、萌え絵問題に関しては表現の自由が制限されるほどの公共性はないと考えます。

以上「フェミニストの批判の手段」、「表現の自由が制限されない広告」の二点について順を追って述べていきます。

フェミニストの「批判」はお気持ちテロ

誰にでも批判の権利はあります。

しかしそれが威力を伴えばどうでしょう。

例えば業務に支障をきたすほどの物量戦によるクレーム。

「自分たちの気に入らない表現をするのであれば業務を妨害するぞ」という威力を伴う、いわば脅しも批判の権利の範疇なのでしょうか。

そんなはずはありません。

抗議活動も度を越せば他者の権利を侵害するテロとなります。

困ったことにこういった集団でのテロじみた「批判」はフェミニストの常套手段であり、これこそが私がフェミの批判は表現の自由を侵していると考える要因です。

宇崎ちゃんコラボの際は原稿用紙6枚分もの抗議をしたフェミニストもいます。

ツリーには団結して抗議すれば次につながるとの文言が。

次につながった結果、赤十字は萌え絵コラボをサイレント開催する羽目になりました。

ラブライブ!なんすん「ご迷惑はおかけできず」

ラブライブ!とJAなんすんコラボの際もおぎの稔氏によると苦情により会場側への配慮としてブースが撤去されています。

また古くはキズナアイ騒動の際も太田啓子氏がツイッター上にて電話による抗議を扇動したという話も耳にします(私は氏にブロックされているため当該ツイートを発見できませんでした。どなたか該当ツイートをご存知でしたら教えていただけると嬉しいです)。

このように具体的にどの程度の量のクレームが寄せられているかは不明ではあるものの、JAが「会場に迷惑はかけられない」と発言していることからも通常業務に支障が出るほどの量であったことは推察できます。

また原稿用紙6枚分の苦情を延々と聞かせるなど、明らかに意見の表明よりも迷惑をかける目的でクレームを入れていることも問題です。

青識氏のおっしゃるように表現の自由を侵していない批判とするのであれば、最終的にその表現を引っ込めるかの意思決定は表現側に委ねられるべきですが、献血コラボもJAコラボもクレームを理由に「やむなく」撤去しています。

表現したいという意思を持ちながら威力によって自粛を強要されたのであれば、これは立派な表現の自由の侵害です。

時に自粛は法規制以上に表現への圧力となります。

性器のモザイクなどは典型で、法律上で規定されているわけではないのに刑法175条のあいまいな条文のみを根拠に出版社側の自主規制によって作家たちは半ば強制的に性器の絵を自粛させられています。

法規制されなければ表現の自由が保証されるわけではないのです。

広告と表現の自由

1975年、フェミニストはハウス食品の「私作る人、僕食べる人」というテレビCMに対し「性役割を固定化している」と抗議し、そのキャンペーンはジェンダー観という認識を人々に広めたとして成功を収めました(当時は誹謗中傷なども相次いだものの、少なくとも現代の評価はそうであると認識しています)。

それから現代に至るまでの約半世紀、フェミニストは様々な広告に対し批判を繰り返しています。

その大前提となる共通認識が、広告には公共性があり社会的影響は免れないため表現の自由は制限される、というものです。

しかしこの半世紀で人々とメディアの関係は著しく変化しており、もはやこの論は時代遅れになっています。

1975年当時、白黒テレビは60年代後半にすでに一般家庭に浸透し、カラーテレビの普及率も鰻登りで90%に達していました。

また「8時だョ!全員集合」といった人気番組も1969年にスタートするなど、まさにテレビ文化の全盛といえる時代です。

娯楽に多様な選択肢ができた現代に比べて、当時テレビというメディアは人々の話題の中心でした。

それこそテレビを見ない選択肢などあり得ないほどの重要な情報インフラであり交流ツールだったのです。

ほとんどの国民が視聴するテレビのCMは絶大な影響力を持ち、サブリミナル的に性役割を刷り込まれる、という主張にも一定の説得力があります。

対して現代はどうでしょうか。

多様な選択肢に囲まれ、SNSで同好の士と簡単に繋がれる趣味が多様化した世で、かつてのテレビCMほどの影響力を持つ広告がどれほど存在するでしょう。

まして宇崎ちゃんの献血コラボポスターなど、開始から二週間後に外国人のアカウントが触れ太田啓子氏が拡散するまでフェミニストに一切触れられないほどの公共性、影響力です。

公共性を根拠に表現の自由を制限しようとするには正当性に欠くと言わざるを得ません。

広告表現における自由の権利を考える時、重要になってくるのは回避可能であるかです。

換言すれば見ない自由があるかとも表現できるでしょう。

かつてフェミニストが初めて広告に抗議した時代、テレビを見ない自由は存在しないと言っても過言ではありませんでした。

だからこそ正当性があったのです。

宇崎の献血ポスターやラブライブ!のJAコラボには見ない自由が存在します。

見たくないならコラボブースに行かなければいいだけの話なのです。

太田氏が宇崎ちゃんの批判の際に使った環境型セクハラという法律用語も本来は職場にヌードポスターが貼ってあるなどの回避不可能な事例に対して使われるものです(釈迦に説法をお許しください)。

現代における広告表現の自由の権利は見ない自由の有無に依存するのです。

フェミニストは表現の自由を侵害している

以上二点、「自粛を強要するテロ紛いの手法」によって「自由の権利が保証されるべき、見ない自由が存在する広告表現を批判する」ことを根拠にフェミニストは表現の自由を侵害していると主張します。

逆に言えば、通勤電車の車内広告であったり職場に貼られる広告などの見ない自由が存在する表現の自由が制限されうる表現に対しての批判、あるいは最終的な判断は表現者に委ねられる威力を用いない苦情に関しては自由だと思っています。

フェミニストがクリーンな手段を用い始めた時には、青識氏のおっしゃる通りフェミとオタクの論争は「<お気持ち>対<お気持ち>」となることでしょう。

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