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平成最後の夏と赤毛のアン

母のはなしは徹頭徹尾現実味を欠いたものだった。
もちろんたとえば「フランスへいつか行きたい」というような実現するのかどうかよくわからないような希望は、しばし心の安全弁になるだろう。
日常的現実だけでは人は窒息してしまいかねない。
しかし母のはなしは、赤毛のアンのお喋りのようにどこまでも現実味がない。現実味のないはなしがしかし延々と続く。

うちの両親は、現実的で実際的なはなしをほとんどしない人だった。
両親からは、そのため現実的で実際的な知恵はほとんど得られなかった。
いや、現実的で実際的な知恵なんてほとんどの人が両親以外の人、本とか会社の人とかインターネットで得るものだよ、というだろう。

確かに、普通、自分と親の世代は年齢換算で最低で二十は離れているわけだからわたしの年代で役立つ現実的で実際的な知恵を親の世代の人が持っていることは少なく、また私の世代が持っている知恵の類の多くも、私より二十以上下の世代には直接役立つことも少ないのかもしれない。

「神社に1万円お布施をすると自分に返ってきて金持ちになるんだって、神社ミッションていうんだって」
最近買った本に影響されてるようで、その本のはなしばかりをする。
会社を辞めて収入が以前の半分以下になっていて冷や汗をかいてるわたしには恐ろしいはなしに聞こえた。
(この状況で神社に一万円お布施だって?経営が困ってる神社の救済なんて行政の仕事じゃないのか?こっちだって救済してもらいたいくらいなのに)
「手と足をじかに土や海の水に直接つけると身体の中にたまった電気がアースされるんだって」
こんどは妹が図書館から借りてきた本に書いてあったはなしだ。
そうなのかもしれないし、その知識が将来役立たないとはいえないけど、当座の経済難をどうにかすることで頭がいっぱいのわたしには聞いてて疲れる話題だった。
しかし赤毛のアンのお喋りはどこまでも続く。
家族同士というのはしばしこのように嚙み合わないものなのかもしれない。
わたしは部屋に下がり自分のことをやることにした。
一年前、人生ではじめて手に入れたパソコンを開く。
四本の指をそろえ「F」「D」「S」「A」「F」「D」…とやっていくいわゆるブラインドタッチというものの練習をはじめた。
noteも実は、最初のころはスマホで打っていたのだが、わたしの場合長い文章が多いので、ブラインドタッチができなくても、それでもスマホから打文するのより全然ラクだ。
ブラインドタッチが鮮やかに決まれば、打文にかかる時間が三分の一以下になるはずだ。
それにしても、ブラインドタッチの練習なんて四十を過ぎた人間のやることか、という気もしなくはないが、この歳までそういうことを避けてきたのだから仕方がない。
人生とはかくもちぐはぐなものかと思いながら「F」「D」「S」「A」…と手を動かす。
外で鳴いてるセミはあぶら蝉からつくつくぼうしがメインに変化している。
猛暑としか言いようのなかった今年の夏も終わりをむかえようとしている。
つくつくぼうしが盛んに鳴きだすころ、僕たちの前にはもう秋が立ちはだかっている。
赤毛のアンのお喋りはまだ聞こえてくる。
平成は三十年もあったんだ…といまさらながら驚く。
わたしはホームレスにこそならなかったが、平成不況という時代状況とともにこれといった結果を出せず埋もれた感じで三十年がすぎてしまった。
平成最初の夏は、確か受験浪人の二浪目だった。
父は今年亡くなってしまったが母はまだ生きている。
赤毛のアンのお喋りが隣の部屋からまだ聞こえてくる。
外ではつくつくぼうしが鳴いている。
平成最後の夏は暮れようとしている。

(あとがき)はじめて読む人には関係ないことになってしまいますが今回は論文調のものを止め、軽いエッセイ風のものを書きました。
気がついたら二週間何も書いてなかったので、そろそろと思い、重い腰をたたいて、いざ書いてみると結構らくに書けました。
始めてみると意外とらくなこともあるかもしれません。
内容に関して、実の母親を赤毛のアンに例えたりしてよいのか!という方もひょっとしたらおられるかもしれませんが、ここでそういった比喩を避けてしまいますと、ある種の心象風景は伝わらないと考えました。
今のところ特定の話題、特定のカテゴリー、特定のスタイルを決めないで色々な可能性を模索していきたいと思っています。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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