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はなしを聞くのは成功者からにかぎるか?

8投稿目になります。

まずは、30投稿を目指しています。

今日の話題は、最近noteでたまに見かける意見についてです。

だいたいこんな感じです。   

「はなしを聞くんだったら成功している人からにするべきだ。失敗した人や成功しなかった人から聞いたはなしをまともに受けるとその人のようになってしまうから」

というような感じです。

ひとつだけだったらそんなに気にしなかったかもしれないけど、二・三同様の意見を見たので気になりました。

もし、俗世で現世的成功を収めた人のはなししか価値がないんであれば、釈迦やキリスト、孔子やソクラテスにセネカといったひとの発言は今日残ってないでしょう。

釈迦は何一つ不自由ない王子様の生活に疑問を持ち、苦しみ俗世を捨てた人です。キリストは新約聖書の中では死後復活してますが、十字架にかかって処刑された人です。孔子も一時権力に重用されますが後に追われるに等しい境遇に落ちてしまいました。

私たちがもしブッシュマンなみの単純文明に今からでも回帰しうるなら、こういった人の言行録や著書はもしかしたら不要かもしれません。
しかしわたしたちの社会はそんなに単純ではないんで、どうしても様々な支えが必要です。

俗世の成功法則に関する書物や自己啓発的なビジネス書はいつの世にも必要でしょう。
D・カーネギーや故松下幸之助、稲盛和夫さんの本などはよく読まれています。
しかし、ビジネス・自己啓発のジャンルでも、明治期に日本に翻訳されて多くの人を鼓舞した「西国立志編」(「自助論」)を著したスマイルズは、ビジネスの成功者ではなく、たんに同胞を励まし勇気づける意図でその本を書いたのです。つまり自らのビジネス的成功がさきにあり、それに基づいたノウハウをまとめたりしたわけじゃ全然なかったのです。
比較的最近では「マーフィーの法則」などが知られているジョセフ・マーフィーも実業家や起業家、ビジネスマンの類いではなく、単純に理論家なのです。
成功に憧れる人が実際に成功した人のまわりに群がりそのはなしを聞きたがるのはある意味当然でしょう。
noteでも、全体ビューやフォロワーやお金といった数字を稼ぐノウハウはやはり人気のようです。それはある意味当然で仕方のないことなのかもしれませんが、そんなに近視眼的に数字ばかりを目の色変えて追いかけると、それこそが目標であり目的なのだというならはなしは別でしょうし、なにを追いかけようとその人の勝手なのでしょうが、それだけじゃ世界がせまくなってしまうような気もしなくはありません。

かくいうわたしも、成功している人のはなしに鼓舞されることがまったくないわけじゃありません。

数字だけを追い求めてしまうのは、それは現実的必要に基づいていたとしても、なにかが落ちてしまう気もしなくはありません。

経済社会にいる私たちが数字的な結果を全く気にする必要がないなんなんてことはなかなかないでしょうが、数字が最重要課題になってしまってあとのことが二の次、三の次というのは虚しいことのような気もします。もちろんこんなことをいってられるのは、わたしが会社の社長とかではなくて、従業員の生活を預かってるような身分ではないからというのもあるかもしれません。
わたしは、ウォークマンで一世を風靡した世界のSONYが損保で有名な会社になってしまったのには少しがっかりしました。でも生き残るためにはそれしかなかったのかもしれません。

また、例によってはなしが逸れてしまいました。

俗世の現実的成功なんか勝ち取らなかった人のはなしも聞くべきものはいっぱいあります。

いわゆる俗世の成功なんてのはさっきのSONYのはなしじゃありませんが二十年くらいの間に、いや四・五年先にどうなってるか予断をゆるさないものが多いと思います。

よけいなお世話になってしまいそうですが、皆様も目先の数字にばかりに目の色を変えず(ひょっとすると極々一部の人だけなのかもしれませんが)数字より大事なもの、数字には表れないものについて考えてみるのも大切かと思われます。性急に数字を追い求めてる人にはそれなりの事情があるのかもしれませんが、わたしはそう思います。


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