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生き様という自己紹介

北海道で株式会社ディライトを経営しております、代表取締役の原正樹と申します。
パーソナルジム3店舗経営とこれから更に事業展開していく計画です。

ここでは自分を知れる今までの『生き様』とこれからの『生き様』を紹介していきます。


人生には苦労もあれば逆転もあると感じています。
もし現状はパッとしなくても、未来に向かって輝かしく変えることはできる。
僕はほぼ無職でしかもコロナで未来が見えない時期に子供の誕生を迎えましたから、未来に向かって自分がやりたいことを強くやっていけば、自分にも人にも幸せを与えられる。

しかし考えて欲しい。もしその状況で、
『やばい、、、世間体と生活の為にやりたくはないけど無難な会社に勤める』 で過ごすのか、

『保証は無いけど自分のやりたいことで生きていく』 のか。

どちらにせよ頑張るであろう。
恐らく多くのパターンは前者の選択が多いのではないかと思う。
なぜなら安心を優先していち早く生活の収入を安定させた方が良いと考える。もちろん人によっては間違いではない。

しかし、やりたいことがあった場合、
もし死ぬ時に人生を幸せで終わりたいならどうだろう。後悔はないであろうか。本心を我慢する人生で良いのか。

あなたはどちらでしょうか?

先程の2択に見えますが、
僕の場合は2択ではなく無意識に後者しか頭になかった。後者の道を歩む決断しかしていなかったのである。
僕が幼少期から過ごして見てきた景色や出来事からこうなる様に才能は選択を繰り返しており、この決断のタイミングが訪れただけなのだ。
僕は無意識に経営者になる道を選んでいた。
全ての人が経営者になれと言っている訳ではない、自分の want to の道を行けということだ。

素直な本心は自分のやりたいこと。
だが常識や人の目を気にして本心とは違う選択をすると、他人の評価を気にしてその承認欲求は無意識に繰り返されて生きてしまう。


他人軸で生きていくのか、自分軸で生きていくのか。
その現状を変わりたくて悶々と生きているなら是非僕のところに来てください。
そんな人にコーチングはおすすめだ。

まずは僕のこれまでの人生を綴っておこう。是非読んでみて。

幼少期〜小学生

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1990年 北海道 室蘭産まれ

僕の育った環境は一般的な家庭と言ったら親父に失礼かもしれないが、不自由の無い生活をさせてくれたと思っている。
大手に勤めていた親父のお陰で新築一戸建てで生活を送れた。

幼少期は幼稚園に行きたいくないと泣き叫んでいた記憶がある。
子供ながらにして自宅のコンフォートゾーンから抜け出すのが嫌だっと感じている。
親の影響でやりたくもない水泳とピアノを習わされていた。
この記事の後に出る写真で、『こんなやつがヤマハピアノ教室に行ってたなんて』とギャップはあるかもしれない。

この時を振り返り、人間はやりたくもないことは成長しない、を体感している。

そして一番興味が持てたアイスホッケーに出会う。

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小学校2年生の頃、親父が連れていってくれた当時のアイスホッケー日本リーグは衝撃的で、相手にとんでもないスピードで突っ込んでいく体当たりに殴り合いの乱闘に激しい試合の音、帰り道にこんなスポーツをこれから自分がやるのかと弱音を吐いていたと親父が言っていた。

しかし参加したアイスホッケーの練習は夢中になり、毎回スケートリンクに乗るのが楽しみで親に車の運転を急かしてまで練習に行きたかった。
怖いもの知らずの少年は、相手を潰そうと突っ込むことに快感すら感じていた。
氷の上という非日常の空間で、華麗なスケーティングにスピードや迫力、気持ちを前面に出した選手のぶつかり合い、そこに人間の無敵さを感じて憧れたのだ。ラグビーを見ていてもテンションが上がる。

当時僕の地元ではアイスホッケーをやっている子供も少なく、ホッケーをややっている自分を自慢していたのも覚えてる。
そしてサッカーにも興味があった僕は転校と同時に5年生でサッカーも始めた。
冬はホッケー、夏はサッカーとスポーツ少年まっしぐらだ。
この時の転校は自分の性格を感じた一面があり、新しい友達と出会える環境が変わる転校を早く望んでいた。早く転校したいと言っているのだから、親は学校で何かあったのかと不安に思い先生に聞いていたそうだが、トラブルなど別に何もない。
今でも新しい環境や出会いにワクワクする気持ちは当時から変わらないものだった。

クラスではふざけて笑を取るのが好きだった。
でも目立ちたかった訳ではなく、好きな時に好きに発言する自由が好きだった。この『自由』というのが僕の人生でポイントとなる。

中学生

中学校に行くと『自由』のない校則が厳しくなり、どんどん個性がなくなる環境に大人になった今でも疑問を感じる。

余談だが、
校庭で先生を先頭に2列で歩いている子供達の風景を見ると、指導者が自由や尊重を許さない縛られた感じに見えて、あまりいい気持ちがしないのは僕の捉え方になってしまう。(教員の方達の意見もありますが。)

髪型、制服、乱さない整列、権限を持つ先生、みんな同じでなければならない、個性は許されない、悪いこともしてないのに自由な行動は許されない。言うことは聞いていたがその環境に生き辛さを感じていた。
社会にルールがあるのは当たり前だが、どうも矛盾のあるルールに納得できない自分を思い出す。

だから現在僕の作る会社は個人の『自己判断』を要していて、勤務体形など拘束はなく『自分はどうなりたいか?』で仕事を成功させるのが軸となっている。そこにビジョンやパーパスの共感は必要だが。

中学に入りアイスホッケーはチームがないことから活動場所が無く、サッカー部に入る。ホッケーをやりたくても環境がないのは本当に残念だった。
この時、アイスホッケー日本一のレベルである苫小牧市の子供達が羨ましかった。(現在事業で拠点としている苫小牧市だ。)
更にこの頃、アイスホッケーのドラマ:プライドでキムタクが話題だった。

進学した北海道登別緑陽中学校は全国大会3位の実績のあるレベル高いサッカー部で、顧問の先生も上下関係も厳しかった。中学生特有の成長期の骨の痛みからボールが蹴れず2年になる時に辞めた。
しかしこの時にもっと重要だったのは、サッカー部のメンバーと力を合わせて勝つ!なんて気持ちは全く無かったのだ。
なぜなら辞めたはずのアイスホッケーがこの時も大好きで、2002年日韓ワールドカップのサッカーの試合にも興味なくホッケーのプロの試合を見にいっていた。
そう、当時僕にとってサッカーはhave to(しなければならない)でありホッケーがwant to(したいこと)だったのだ。
サッカーは動くことが好きでスポーツとして好きだった為、サッカーに対しての向上心はあまりなかった。部活になると have to になっていった。
ここでも人間はやりたいことでなければ続かないし成長しないことがわかる。

学業は成績は悪く、テスト開始の合図で黙々とペンを動かす周りを見ていつも不思議に思っていた。何故ならこの時点で将来やりたいことが明確でもないのにどんなモチベーションで勉強に取り組むのか自分にはわからなかった。
勉強しないと将来困るとか、大手に入れないとか脅されても響かなかった。親からひたすら言われる『勉強しなさい』に『なんのために?』の明確なアンサーやコーチがいれば変わったかもしれない。
今でも動機がないと何事も良い取組ができないのはこの頃からだ。
もしこの時、アイスホッケーを続けていたら『名門大学まで行ってプロになる』と勉強も頑張れたのかもしれない。

好きなことして生きていきたいと当時から思っていたが、ホッケーの環境を失った当時の僕は好きな職業を見出せてはいなかった。

個性で生きている人を好んで見てしまう癖があり、小学生からずっと個性が現れるhiphopを聴いていた。中学生の時はキングギドラを聴いていた。そのリリックは強烈で社会派なメッセージも含まれていた。
hiphopはレーベルを自ら立ち上げたり音から歌詞までオリジナル、そんな個性あるものが昔から好きでした。

だから今でも僕は部下に対しても個性を尊重して活かして欲しいと接している。僕の命令で僕色に染めることはしないのだ。自分の色を出せばいいと思っている。

高校生

高校生はそんな気持ちが弾けてしまう。
あまり見た目のいい高校生ではなかったので写真は控えさせてもらう。
自慢できることはないのでここはサラッと流させてもらう。できれば振り返りたくない。
一つ振り返るならば、色々と勘違いした時期であり何に対しても謝りたい。。。
一応サッカー部に属していたが、先ほども触れた様にサッカーはスポーツが好きだからやっていただけだった。(当時のチームメイトごめんね)

専門学生

18歳 実は進学ではなく就職が決まっていた。
しかも言い出したのは警察官になると言うのだから・・・
実は専門学生になるにはちょっとしたドラマがあった。

高校卒業間近にサッカー名門校青森山田に進学した幼なじみと数年ぶりに会った。そいつはサッカーが上手くて大学も進学して将来スポーツメーカーに入りたいとか夢を語る。
まさきは?と聞かれて答え辛かった。
友達は立派にエリートな道に進み、自分はある場所に就職が決まっていたが言うまでもなかった。
でも友達は『その仕事なら今じゃなくていいから、他にやりたいことはないのか?』
その一言で抑圧されたものが外れた。この時、彼にコーチングをされたのだ。
サッカーやりまくって全国レベルで戦い自己適用していた友達の一言は大きかった。(おそらく本人は当時を覚えていない)

彼のお陰で人間の選択の自由に気付かされ、僕の人生はここでシフトチェンジする。自由に選択すれば良いことに気づいたのだ。

色々見る機会もあり警察官になりたかったのだ。
あまり素行の良い少年ではなかった為、こんな自分が警察官なんて恥ずかしくて言えない・・・っと思っていたが初めて口にした。聞く耳持たなかった僕がそれを伝えると親は喜んで進学させると言い、高校には頭を下げ就職取消で進学へ。

進学するとそこは公務員学科。今まで接点もないような真面目なクラスメイト。担任の先生は僕を初めて見た時、自動車課の生徒が教室間違えてるみたいなことを言ったのを覚えている。
この時人生で初めて真剣に勉強した。そして警視庁の2次試験までいったが落ちた。
警察の2次試験は北海道真冬の警察学校の体育館にパンツ1枚で整列。目を瞑れと言われて静止する。恐らくこの時に刺青は無いかや様々なチェックをされているのだと思う。僕は何も入ってないが。
まるで受刑者みたいな掛け声に教官の怒鳴り声。良い経験でした。
陸上自衛隊の曹候補生は受かっていたがお断りして、警察官にはなれずに卒業。勉強が足りなかった。

北から南に移住。初めての社会人は沖縄生活。

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この時は二十歳。初めての就職は自由に生きてみようと一回も行ったこともない友達もいない沖縄に興味本意で移住した。寒冷地で育ったので南国に憧れがあり、好きなことしようと思って日本のハワイってどこだ?って考えて沖縄にした。
興味持ったことをやろうと思っていた為、一つの仕事に執着せず過ごした。
沖縄時代にやった仕事は、マリンスポーツ、アパレル 、車屋・飲食店。
この車屋・飲食店の時にお世話になった社長は印象に強く、今でも参考にしていることがある。
掃除やこまめな散髪、商人としての心構え、グーが飛んでくる時もあったが納得があった。(僕は今の部下にそんなことしませんが)男を磨けと言う社長だった。

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北海道に戻る

約3年興味本意で行った沖縄から『ここは遊びに来るところだ、また遊びに来よう』と北海道に帰って仕事をしよう思い戻る。
ここからネクタイ締めたサラリーマン。親の言う通りに少し真面目にやってみるかと。
機械商社の営業マンだった。人と話すのが好きだった為、営業職は楽しかったが扱う商品がまぁ興味ない。大きい話では設備導入の案件もやったが、営業で話題になるのはいつも僕の体であった。

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そう筋肉である。
10代から筋トレは好きでずっと続けていた。体が変わる素晴らしさと多様な私生活での変化はウェルネスそのもの。
このサラリーマン時代にベストボディジャパン札幌大会に初出場。結果は80人中ファイナリスト15人の中に。
この数年後にメンズフィジークにも出場し最高にやり切った。
大会後は負けていても悔しくなく、楽しかったの気持ちが強かった。

ここで気づいたのは、自分にとってフィットネスは健康的な食事にトレーニング習慣はオールライフの中で好きでやっていること。
筋肉を肥大させて誰よりもカッコイイ体を目指しているが、まさに自分史上ベストボディでよかった。
コンテストで他人と比べて順位を決められることが自分にとって欲求ではなく必要ではないと気づいた。

健康的な食事とトレーニング習慣を取り入れることで、仕事の質やプライベートを充実させることができる。この自分が感じたフィットネスの素晴らしさを提供したい、仕事として利他で働きたいと思ったのだ。

(後にこの時のフィットネスに対して疑問が将来に繋がる。)

そうしてパーソナルトレーナーの道へ転職する。

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27歳 トレーナー転職 

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この時、転職が5回目。自分に揺るぎないものを仕事にしたいと思っての転職だったのでこれは本命だった。そもそも転職に抵抗がないのでネガティブも不安もない。やりたいことはやるし、やりたくないことは続かないとわかっているからだ。

前職の営業の甲斐もあり、在籍中カウンセリングは失注無し、物販の売上も一番だった。あるメーカーさんがわざわざ挨拶に来てくれたこともあった。
新しい出会いをするのが楽しく人と話すのも得意であり、トレーナーとして自分の経験が活かせられる為、顧客にコミットしていくパーソナルトレーナーは自分にとっては好きな職業。

だがこの時お金に苦労した。
前職は商社のサラリーマンで多くはないが普通の給料にボーナスもあった。トレーナー業はアルバイトから始まった。バイト代に対して見合わない前年所得の公金支払い。住んでた家は家賃2万円+駐車場1万円。
入居初日に水道が壊れて水が出ないとか物理的事故物件だった。
コンビニで夜勤のバイトも始め廃棄弁当をもらって食べていた。フィットネスとは程遠い不健康生活。
そんな生活をしてでも、この仕事が好きだと感じていたからこそ将来独立しようと思っていたからモチベーションになっていた。

そんな半年後にチャンスがきた。

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担当したクライアントさんとの出会い。その方は社長さんだった。
回数を重ねるうちに僕の独立思考を知っててくれて、社長2名の付き人の話を紹介してくれた。
ワクワクして話を詳しく聞かないまま即答した気がする。

そこが人生の転機であった。

家賃2万から脱出して社長所有の物件に住み込ませてもらい、車も用意してもらった。社長運転手として常に同行して起きたら寝るまで一緒にいた。
世間的に言えば『鞄持ち』なのかもしれないが、自分に対してそんな失礼な扱いをする社長ではなく情に響く背中で語る人だった。
色々な世界を見せてもらったし、何の役にも立たない自分をこんなポジションで経験させてくれることはない。
そんな1年間を過ごし学びの契約は終わったので一息つこうと思っていた。

無職で結婚

そう、またも転機。だがこの時無職。
このタイミングで付き合っていた彼女(現在の妻)と子供ができて結婚に。流石にこの時は無職で頭パニックだった。

思い返せば僕の人生は常に未来に向かってどうにかする人生だ。

子供の存在は大人の人生を大きく変えるし、無意識にゴールを想定しRAS(脳幹網様体賦活系)が発動して急成長する。本当に良い出来事である。
世の中の順序的な風習はあるがそんなのはどーでもよく、人生の転機になるのでおすすめしたい。責任持って幸せに向かっていけば良いだけなのだ。

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独立準備期間と考えていたが、そんな時とある知り合いが無職の僕を仕事に誘ってくれた。サプリメント・フィットネス関係の仕事である。独立したいから長くは勤めないと話していたので数ヶ月で終わりに。ここまで札幌にいた。

2020年の新年幕開け。パーソナルジム 独立・開業

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30歳で独立開業。前書きにも書いたが迷いはなかった。
成功するとかしないとかも考えてなく、自分はこれを仕事にしたい、自分の好きな分野で関わった人を幸せにできると思ったのだ。

当時まだパーソナルジム が1店舗もない苫小牧市にオープンを決めた。僕の地元ではないがアイスホッケー でよく訪れていた地でもあり、妻の地元だった。

お気づきだろう、この年コロナが到来。まさにオープンした4月は国内初めての緊急事態宣言。しかも娘の誕生に開業が重なった。この4月は出来事が多すぎた。オープンして2週間で休業命令に追い込まれた。
独立準備期間だったので、無収入・出産・開業・コロナ渦。不安の連続だ。

普通だったら、本音のやりたい事ではなくても無難に安定した就職を選ぶであろう。もちろんそれで良い人もいるから間違いではない。

しかし社長付き人で見てきたその背中。
過去から気づくと、転職経験の中でいつも勤め先の社長の行動や言動を気にして見ている自分がいたし、自分軸の個性で生きている人に魅力を感じてきた。しかも雇われで落ち着いた経験もない。転職は8回にのぼる。

経営者として生きる運命を出会ってきた。
僕は無意識に経営者になる道を繰り返して選択してきた。

この2020年の目標に向けてのRAS(脳幹網様体賦活系)の発動が半端じゃなかった。
普通なら誰もやらないこの年の開業、金融機関にもオープンの遅延を言われたり親や友達にも止められたが、自己実現に向けて全く聞く耳持たず不安も考えることなく無意識に目標に向かった。気づいたら3日間寝ないで作業していて妻にびっくりされた。
そもそも金融機関から市内に1店舗もない都会のビジネスを持ち込んでも成功しないとか言われて口喧嘩したのを覚えている。

このコロナ渦でビジネスを成功させたら最強の経験になると信じていた。
そんな年でもお客様は来てくれて、予約いっぱいに仕事をさせてもらい休まず働いたこの年は良い経験。
翌年2021年に1店舗から3店舗に業務拡大した。

この人生においての自己実現が重要で、揺るぎないもので自分の可能性を最大限に活かしたいと常に思っていた。

自己実現・更に超越

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これからの自己実現の話。
詳しいゴールはここでは語らないが、精神的にキマってるゴールがある。

これから変わる業界の文化が果たして人の為になっているのだろうか・・・

僕の資質は、勉強した知識を相手に伝えたい、自分に関わったことで相手の人生を変える。顧客にコミットだ。

世の中がシフトしていく文化は人を変えることができるのか?結果を返さず利潤目的のビジネスになっていないだろうか?

何に疑問を持ち、何を見てイラつくのか。

社会に存在する意味(パーパス)としてその文化をぶっ壊し、自分達が働きをかけて新しい常識が世に浸透して変わる世界をビジョンとして掲げている。
その想いで更なる事業を準備中である。

コーチングとの出会い

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コーチングと出会ったのは開業3年目。
その時点でフルパワーで仕事していたけどまだ自分の可能性は伸ばせるし、もっと飛躍したい。しかし言語化できていない、ゴールが明確ではなかった。
一人で掲げたゴールは、コーチから言わせれば『そのまま現状で努力すれば叶うだろう』のレベルだった。
GAOL-Bのコーチングに出会ってアマテラス村岡のコーチングを受けてから自分の行先が明確になりエネルギッシュに行動する様になった。
抑圧が消えて明らかに自分がやりたい事が言語化されていったのだ。

自分もコーチとして活躍したいと思い Mindset Coaching School に自己投資した。
なぜなら『全ての人に可能性がある』と思ったからだ。

コーチングを受けるか迷っている人へ


僕にはコーチとして理念がある。
『関わった人を幸せにする』
そして日本人の自己決定力を上げたいと思っている。


ここまで自分の過去を綴ってきましたが、僕の人生は状況を変える未来に向かって走ってきた。
過去は変えられないのですが重要なのは未来です。
現在や過去がポンコツだとしても未来はなんとでも変えられるのは事実です。
家賃2万に廃棄弁当生活でも、2年後には経営者として家族と従業員とクライアントを幸せに導いている。

営業で売上成績が良い、大手にいたり高学歴であったり、
そーゆー人もその苦労をしてきていますが、
叶えたい未来はあるけれど言語化出来ず行動にできていない苦労の人もいる。

今よりも成長意欲がある人、現状を変えたいと思っている人だけ、
自分の理想を買いに来てください。

未来を掴む一人として、一緒に走っていこう。

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株式会社ディライト  代表取締役 原正樹