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Disco King Marioについて

1971年、ディスコ・キング・マリオはブロンクスの著名なDJのひとりだった。彼は優れたサウンド・システムと音楽、楽しい時間が大好きなことで知られていた。しかし、当時のブロンクスはギャングと暴力が蔓延、街は空爆されたかのような荒れようだった。そんな時代にブロック・パーティーをはじめたマリオは、ディスコ・キングとして近所のファミリーから汚れたギャング達まで至るところで尊敬されていた(彼は喧嘩も強かったらしい)。当時のブロック・パーティーではDJがキングだった。これがヒップホップのはじまりのはじまり

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Wikiによれば、1956年、ディスコ・キング・マリオはノースカロライナ州で生まれた。しかし、綿花やタバコの畑から逃れるためにブロンクスのデール住宅プロジェクトへ引っ越した。そこで彼はブロンクスのギャング・チーム〈ブラック・スペード(元サベッジ・セブン)〉のメンバーとなった。〈ブラック・スペード〉と言えばそうアフリカ・バムバーター。彼らはここで出会うことになる。

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当時のマリオはやりたい放題だった。それはブロック・パーティーでのお話。ブロンクスのローズ・デール・パーク「ビッグ・パーク」が主戦場で、チャック・チャック・シティーというクルーと共に最高のサウンド・システムで人気を博したという。余談だが、彼はとてもハンサムでDJプレイする姿がセクシーだったという。そんな彼を女性達もほうっておかなかったようだ。話を戻したい。彼はブレイクビーツこそ発見しなかったが、アップテンポなディスコをプレイしまくっていた。その名の通りだ。

彼が主宰していたスーパー・ライヴ・ジャムには、アフリカ・バムバーター(アシスタントもしていた)やクール・ハーク、ビジー・ビーにジャジー・ジェイも遊びに来ていたという。のちにヒップホップという文化を生み出すDJ達がこぞって参加していたことになる。彼は〈ブラック・スペード〉のメンバーとしてブロンクス南東部を手中に治めていたため、他のDJと違い学校や公園などをパーティー会場として自由に使用できたらしい。マリオは、その力をアフリカ・バムバーターやビジー・ビーに使った。自分自身のサウンド・システムを貸し与え、彼らが学校や公園でDJプレイできるよう取り計らったらしい。とてもいい話だ。その後、オリジナルのサウンド・システムを持ちズールー・ネイションを結成していたようにバムバーターとマリオはDJバトルを開催した。78年のことだ。結果は、マリオの勝利だったという。DJもキャリアがものをいう時代だったのかもしれない。

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Yes Yes Y'all: The Experience Music Project Oral History Of Hip-hop's First Decadeの中で、ファンキー・フォー・プラス・ワンのメンバーであるDJブレイクアウトは、自分とのDJバトルでバムバーターは、ディスコ・キング・マリオにアンプを借りて勝利したと語った。

ビジー・ビーは語った。「それはブレイクアウトとバムバーターのバトルだった。その時私は、ブレイクアウトとラッピンしていた。そして、バムバーターは、DJバトルでブレイクアウトやDJバロン達に勝つために、マリオのアンプを必要としたらしいんだ

DJバロンは語った。「バンバーターはジムの片側にいて、私たちは反対側にいました。そのジムの中は、ぎゅうぎゅう詰めだった。しかも、マリオはバンバーターにパワーアンプを貸していたんだ。しかも、奴らのクルーがこちらのアンプに近づき私たちに向かって水を吹いたんだ。この水に俺たちのアンプは浸かったんだ。やられたよ

DJバトル中に水を吹いてアンプを潰すとは微笑ましい話だ。それはさておき、マリオが仲間想いであることがわかるエピソードだ。その後、彼はドラッグに犯され80年代に入り38歳という若さで命を絶った。早死にしたがためにヒップホップ・ヒストリーには長らくその名前がのらなかった。しかし、歴史の検証が進むにつれてヒップホップ・オリジネーターであるクール・ハークやアフリカ・バムバーターらに影響を与えたサウス・ブロンクスのオリジナルDJとして、ディスコ・キング・マリオ(ピートDJジョーンズ、グランドマスター・フラワーズも)に、ヒップホップの先駆者達がヒップホップ文化の基礎を築いたひとりとして敬意を払っている。

※アメリカのドキュメンタリー・フィルム「True First Documentary: Disco King Mario」を貼っておきます。興味のある方はぜひ観てください。

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