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何をするにも遅すぎることはない――【野口聡一さん】JAXA退職記者会見

宇宙飛行士の野口聡一さんが、2022年6月1日にJAXAを退職する。5月25日の記者会見では、「挑戦」という言葉が何度も登場した。「挑戦」――このフレーズはこれまでの野口さん、これからの野口さんを象徴する言葉ように思える。2021年12月発売『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』の編集を担当した原田が、記者会見の模様をレポートする。
*野口さんの発言は、可読性を考え、一部修正しています。

JAXAを退職する理由

 1996年の6月に宇宙飛行士として選抜されて以来、26年間、いろんな形で応援していただきありがとうございました。あっという間の26年だったかなと思います。3回の宇宙飛行を行い、無事に生還することができました。
 3回目のミッションを終えたころから、そろそろ、後進――搭乗を待っている後輩の宇宙飛行士やこれから選抜される新人宇宙飛行士たちに道を譲りたいと思い、今回の退職の決断となりました。

 会場は温かい雰囲気に包まれていた。1996年に宇宙飛行士候補生として選抜された時からのご縁という記者をはじめ、多くが顔見知りのようだった。
 会見前には私たちメディアに野口聡一さんからのごあいさつ文が配布された。まず目に飛び込んできたのは、「功遂身退、天之道也」という文字。中国春秋時代の思想家、老子の言葉で、りっぱな仕事を成し遂げたら、その地位にとどまらず退くのが自然の理にかなった身の処し方である、と説明が書かれてある。退職のきっかけとなった言葉だという。

 今後は、JAXAを離れて研究機関を中心に、一民間人の立場で、この宇宙に関わっていきたい、宇宙を盛り上げるところに協力していきたい。
 それとともに、我々の未来を作ってくれる、次世代を担ういまの子どもたちに新しい希望ある未来を、未来圏への熱い気持ちを持ってほしい――そういう人たちを育成していくお手伝いができたらいいなと思っています。

 あいさつ文には、「我々の未来を担う、総合知を備えた人材育成教育に尽力したい」と綴られ、宇宙を目指す次世代の若者へ贈る言葉として、宮沢賢治の『生徒諸君に寄せる』からの引用「諸君の未来圏から吹いてくる 透明な清潔な風を感じないのか」で締めくくられていた。「宇宙は人類共通のフロンティアであり、我々の「未来圏」そのもの」だと。

 宇宙開発、宇宙への挑戦というのは、最終的には、明るい未来に向けて我々が何ができるのか、次世代に向けて明るい未来展望をいかに描いていくか、ということに還元されると思っています。
 私のこの26年間は、実際に自分が宇宙に行き、国際宇宙ステーションのような大きな国際プロジェクトに関わり、宇宙のいろんな姿を見せることで、人類共通、世界共通の大きな夢を実現させたいと思っていました。
 今後は一人の民間人として、子どもたちに直接関わったり、これから宇宙を目指そうとするベンチャーや一般企業に助言をしたり、モノ作りをしていくことが、日本全体にとってプラスじゃないかなという思いが少しあります。いま日本に(住んで)いる、民間の宇宙船に乗った唯一の日本人なので、その経験を団体や企業、学校などに発信していきたいと思っています。

「総合知」とは、狭い言い方をすると、工学、医学、文系、理系のような縦割りではなく、“文理融合”と言われます。さまざまなジャンルを総合的に理解して、それを知恵に昇華していくという試みだと思っています。私がいま大学で研究している(東京大学先端科学技術センターでの当事者研究)、健常者と障がい者、アスリートといった中から得られる知見もそれにあたると思います。

 新型コロナウイルスをはじめ、時代の閉塞感に苦しんでいる子どもが多くいると思います。宇宙が、子どもたちが抱えている閉鎖感を打破するひとつのきっかけになるといいなと思っています。
 たとえば、(三回目の宇宙飛行で搭乗した)スペースX社のクルードラゴンは、世界中のこどもたちに、“新しい世界を見る機会ができる乗り物”というアイコンになっていると思います。目の前の世界だけでなく、宇宙という新しい世界に行けるんだと感じてもらえるといいかなと思っています。

国際宇宙ステーションに向かい、ドッキング間近のクルードラゴン。(ⓒNASA)

自身の著書『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』で野口さんは、「滞在日数が多くなる本格的な宇宙飛行では、何か異常事態が起きたとき、自動操縦に任せておけないこともある。深い知識を持ったプロの宇宙飛行士が対応することで危機を乗り越えられることもあると思う。わたしは将来、そんなプロの水先案内人の仕事に就いているかもしれない。」と綴っている。気になる野口さんの今後について、どのような展望を話したのだろう。

 宇宙へ行く機会がゼロとは思っていませんが、JAXA宇宙飛行士として飛ぶことはほぼない。民間人として宇宙に行く可能性は半々かな、と思っています。地球の周りを回る軌道はほぼ民間に開放され、民間主体になっています。宇宙は今後、民間の旅行客が行く場所になっていくでしょう。そのときに、私が水先案内人やガイド的な活動ができればいいなと思っています。

今回JAXAを退職する明確なきっかけとして、3回目のミッションが無事に終わった、ということもあります。NASAで25年間働いて、若干燃え尽き症候群的になり、新しいところで頑張っていきたいという気持ちがあったのは確か。ここからもうひとつ場面を作っていけば、死ぬまでに、もうワンサイクル回せるんじゃないかと(註・野口さんは現在57歳)。慣れたNASAは心地よい空間ですが、その環境のまま終わるより、厳しい民間の世界でもう一度もまれるという体験をするにはよい機会だと考えました。
「何をするにも遅すぎることはない」という意味では、今の年齢から新たなワンサイクルを回していこうか、というのが正直なところです。

『宇宙飛行士 野口聡一の全仕事術』には、その言葉を裏付けるかのような記述がある。抜粋してご紹介し、この原稿を締めることとする。

挑戦をあきらめない

「こんにちは。今日は宇宙飛行士の野口聡一さんに特別なメッセージがあります。わたしはクレイグ・グレンディ。書籍『ギネス世界記録』の編集長です。地球上のロンドンからお届けしています。野口さんが今年3月5日に行った船外活動でギネス世界記録『ふたつの船外活動における最も長いインターバル』(“Longest time between spacewalks”)を更新しました。その期間は15年214日となります。ギネスワールドレコーズを代表して野口聡一さんにこちらをお渡しします。ギネス世界記録の公式認定証です」

 このギネス記録は、3度目の宇宙飛行が過去のものとは大きく異なる意味を、はからずも教えてくれた。
 前回の船外活動は、2005年のスペースシャトル・ディスカバリー号のとき。船外ミッションは3度に及び、当時のわたしは40歳の体力をみなぎらせていた。それから15年あまり。クルードラゴン初号機で飛んだわたしを待ち受けていたのは、第1章でご紹介したように、過酷な船外ミッションだった。わたしはこのとき、55歳。それまでのギネス記録保持者だったロシアの宇宙飛行士セルゲイ・クリカリョフは、46歳のときに最後の船外活動を成功させている。それよりもわたしは、10歳ほど年齢を重ねていたことになる。わたしより高齢で船外活動をした宇宙飛行士はいるのだが、15年も時間をあけてふたたび船外活動に挑戦したものはいなかったということだ。
 NASAからは事前訓練で厳しいチェックにさらされ、そのたびにわたしは自問自答したものである。「いまのお前は無事に船外活動ができるか」「一緒にあのクルーをちゃんと助けて戻ることができるのか」。過去の実績ではなく、いまこの瞬間、15年前と同じ活動ができるかどうかを試されたのだ。
 実際、クルードラゴンの仲間だった新人のビクター・グローバーを見ていても、船外活動に取り組むその働きぶりに、「体力的にはかなわないな」「やっぱり若いっていいな」と感じることはあった。
 それでも、体力的な部分を経験と知識で補うことができる、と今回の船外ミッションで確かめられた。これなら若い飛行士と一緒にやっていける。50代半ばにさしかかり、わたしは「挑戦をあきらめない」という思いと手応えを感じていた

2021年3月5日、野口さんは自身4度目の船外活動を行った。15年214日ぶりの真空の宇宙で、重要なミッションを成し遂げた。(ⓒNASA)