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マイケル・ジャクソンとの日々

マイケルな日々を綴る。

おそらくだが、小6からマイケルへの狂信は始まった。
時は90年代に突入したばかり。
それはそれは凄かった。
確実に着実に、僕と同い年のマコーレ・カルキン同様、マイケルに心をBeat Itされていた。

が、当時の僕は友達に口が裂けてもマイケル(洋楽)を聞いてるなんて言えなかったのを思い出す。
小学生、周りは当然日本のヒットチャート。
洋楽聞いてる=変なヤツ、なんじゃないか?と言う自意識。
マイノリティポジションに自ら飛び込む勇気なんて無かった。
この感覚わかるかな?時代だろうか?それとも幼稚だっただけか。
僕が過ごした富良野という閉鎖的地域故なのかはわからないけど、なんかそんな自分が対外的に恥ずかしかったのを覚えている。
今となってはどんな田舎でもYouTubeやストリーミングがあり、洋楽を聞くのもインディーズバンド聞くのもアイドル聞くのも特に壁は無くなっている。なんて素晴らしい時代なのか。

ともかく、こっそり、そして家では大胆に、富良野のKing of popになりきっていたのだ。

なぜ、MJ?

ことの始まりはMCハマーがそれこそ「お茶の間」に登場するところまでさかのぼる。

ハマーのブレイクは北の国・富良野の地まで轟いた(とんねるずとかその他地上波に頻繁に登場)。ヒップホップ(ラップ)というカルチャーにとっては不本意だったかもしれないが、そんな革命的な音楽が田舎町に降臨したのは彼のキャッチーなスタイルとダンスがあったからなのも事実。僕(や当時の日本)にとってはRUN DMCでもビースティーでもなく、MCハマーだった。そんな事情も含め、彼の衝撃は計り知れなかった。(結果は所謂一発屋に終わるが、楽曲の個性はタイムレスな物がある)

それは特別音楽に対してフラットなスタンスだった僕の脳をDNAごと呼び覚ました感じだった。

ダンスってなんてかっこいいんだ!
ラップ!?なんだこれは!!!

日本でお茶の間のスターとなったハマーなわけで、無論、僕も家でハマーの録画ビデオを興味津々で見ていたわけだ(フジテレビかなんかで放送した東京ドーム公演を録画したVHS)。

そこに、父、登場である。
(僕の音楽感にちょいちょい影響を与えてきたのが父だ)

ノンキにハマーの東京ドーム公園の冗談みたいな衣装を眺めていた僕の背中から声がした。

「おい、こんなのより、マイケルジャクソンの方が全然凄いぞ」

え……!

マイケルジャクソン??

名前はもちろん知っていたけど、(僕が3、4歳くらいの頃マイケルがラジオでかかると踊っていたらしい)、当時は得体の知れない存在であった。父の目にはハマーなんてフェイクに写っていたのだ。そんな物にうつつを抜かしていた僕を父はあわれに思ったのだろう・・・たぶん。

ありがとうNHK!?

そんなジャストのタイミングで海の向こうではマイケルが新作をリリースしていたのである。
父はマイケルの回し者だったのだろうか?タイミングが完璧である。

アルバムはその名も「Dangerous」。

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今思えばこんな幸運、めったに無い。リアルタイムでのマイケルとの出会い。

永盛家ハマー事件の数日後(だったと思う)、NHKはソニーの「Dangerous」のプロモーションの一貫として「マイケルジャクソンスペシャル~the more」を放送した(たしかこんなタイトル)。
この番組知ってる人いるかな〜?アメリカでの放送元とかは不明なんだけど(調べれば分かりそうなもんだが)、ナレーションと共にマイケルの功績を体感出来る素晴らしいプログラムだった。

父はそれをビデオに録画し、僕に叩きつけてきた。これが本物、

THIS IS IT!!だ!

とでも言うように。

内容は前述した通り、的確なバイオグラフィーをナレーションでキュレートしつつ、新作のMV(マイケルはショートフィルムと呼んでいた)とライブ映像(お馴染みブカレストのやつ)、そして数々のヒット曲のMVをまとめたドキュメンタリータッチの番組。

父の言うように、確かに、本物だった。

ハマーとの差は小学生の僕にも歴然だった。
キレキレどころじゃないダンスと唯一無二の歌声。説明不要の傑作ビデオの数々。

その番組の冒頭を飾る「Remember the time」の集団ダンスで僕は完全にマイケルの虜になってしまったのだ。

6分11秒頃からのパフォーマンス、今見ても興奮する。

ニュー・ジャック・スウィングとのシンクロ

そしてサウンド。
これが決定的だった。90年代初頭、ニュージャックスウィングの台頭は必然だったんだと振り返って思う。そして、マイケルの声との化学変化は他のニュージャックサウンドとも一線を画すもので、非常に有機的に響いていた。

とまあ、硬い文章で綴ったが、要はハマーでヒップホップ、R&Bかっけー!な脳になっていた僕に、Dangerous全体にアレンジされた超ハイブリッドダンスビートに骨の髄までしびれたって言う話だ。

「オフ・ザ・ウォール」の当時の音楽シーンにおける革新性(ジャクソン5の、あの”マイケル”がソロデビューすると言う背景も含め)、「スリラー」や「Bad」の頃のサウンドプロダクション(クインシー・ジョーンズプロデュース時代)も当然かっこ良いのだが、「Dangerous」から抜擢されたテディ・ライリーの最新で未来的、ギラギラしたドラムビートが当時の僕には新鮮でめちゃくちゃかっこ良かった。
「Dangerous」が無かったら僕はそこまでマイケルフリークにはならなかったのではないかと思う。
僕より上の世代からは信じられないかもしれないが、スリラーが当時衝撃的だったように、「Dangerous」は90年代のポップミュージックに革命をもたらし、その後のトラックメイキングの方向性をも変えた金字塔と言えるのだ。
つまりだ、
マイケルは常にアルバムごとでその時代時代に衝撃を与え、新しいファンを獲得していった超人なのである(言うまでもない…けどね)。

すべてのムーンウォーカーへ

まず、父よ、ありがとう。
ハマーごめん、君とはお別れだ。短い間だったけど。

こうして僕のマイケルフリークの十代前半が始まったのだ。部屋でLive In Bucharestを見ながらマイケルムーブ、ムーンウォークをこそこそ練習した日々。心のベストテンは常にマイケルだった。

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最後に、

マイケルはDangerous以降、楽曲とパフォーマンスはともかくどんどん際どい存在へ変貌していった。それは紛れもない事実だ。
でも、僕みたいなマイケル信者はそれすらも愛していたし、
数々の疑惑は当時からゴシップのメインディッシュだったが、そんな事よりジャネットとの共演に狂喜乱舞していた。

日本のバラエティーではギャグにされる事もしばしばあったし、ポップスターの立ち位置は揺るがなかったが、マイケルの「音楽家」としての認知度が薄まってしまうのはどことなく嫌だった。

そんな際どい非人間的な存在として扱うムードは、悲しくも「This is it」の頃までは続いていたのではないかな。
わからないけど。

彼の死後、僕の周りでも手のひらを返したようにマイケルを賞賛する人間を見なかったと言うと嘘になる。

話がそれた。

と言うことで、僕とマイケルとの出逢いと蜜月時代の物語はこうだ。

なんとなくこの曲で締めようと思う。

完璧なプロダクションとドライに処理された事で浮き彫りになるマイケルの超絶的で艶のあるボーカル。至福である。

では…

I LOVE KING OF POP!


たけお

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