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2024年春の人形劇祭、FIDENA/ドイツとFIMFA/ポルトガルに行ってきました


5月中旬、ドイツとポルトガルの二つの人形劇祭に行ってきた。ふだんは人形美術がなんだテクニックがどうだということにかまけていられるが、今回は二つの人形劇祭のイスラエルに対する態度が気になってそれどころではなかった。現在イスラエルが行っている大量虐殺に対して、二つのフェスティバルがとっている態度には大きな違いがあった。
それについては最後に述べるとして、ひとまず以下はそれぞれのフェスティバルでみた作品についての簡単な記録です。

ドイツのFIDENAで見た作品


1)Mark Down / What to do in a puppet emergency.「非常時のための人形劇マニュアル」

(上の動画は、同じマーク・ダウンによる、人形遣いの技術の一つ「フォーカス」を学ぶための短い動画。これと上演作品はまったく別ものです)
「非常時のための人形劇マニュアル」と名付けられた30分の爆笑漫談。マークが蛍光イエローの緊急救命胴衣を着て登場し、「みんな、喉に物が詰まったときの助け方は知っているかな? 飛行機の時の緊急着陸態勢は?」と聞いた後、「じゃあ人形劇の緊急時にはどうするかしっているか?」と畳かけて、プロの人形遣いが来るための間をつなぐ必要に迫られるという「パペット・エマージェンシー(救急人形劇)」なる奇妙なシチュエーションのための即席講座が開かれる。
「歩き出すとき、人形は必ず足が先に動く」(人間は頭が先だが)などの人形遣いにとっての実践的tipsてんこもり。また、「糸操りだった場合は、さすがに素人が手を出すのは無理だから、近くの人形劇場に逃げ込んでその人に渡せ!」とか、人形劇人向けのジョーク満載でとにかくずっと笑ってしまった。とはいえ、全体としてはThe Tableの縮小版のような舞台(ある人によれば「薄めきった紅茶」)。Blind Summitのマーク以外の二人がボーフムに来られないということで急遽作り挙げた舞台とのこと。でも沢山笑わせて貰ってありがとう。

2) Théâtre Gudule* / Santa Pulcinella

若くてセンスのよいフランスの二人組のプルチネラ。ブースの造りや人形の姿は伝統的なイタリアプルチネラ風の装いながら、若い二人組の演者がレトロなレオタードを着てメイクアップをしていて、ちょっとオルタナティブ/現代的な感じが漂う。操りはとても器用で、あとしつこすぎる反復によりシュールな雰囲気を作り出して笑いに繋げるといったジョークの手法が結構おかしかった(警察を殴り殺したプルチネラが、警察が死んだかどうか心臓の音を聞いて確かめるために警察の心臓に耳を当てるのだが、その当てた耳の場所を心臓から少しずつずらしていき、しまいには地球を一周する、など)。ランジャタイ的というか。アリエル・ドロンが芸術的監修として入っていた。

3) KMZ Kollektiv / Kakao

青少年演劇のカテゴリで作られた、カカオ豆にまつわる西欧批判。このグループは反植民地主義の主題をよく扱っていて、面白そうだと思ってみてみると肩透かしを食らうことが多いという印象がある。この作品もそうだったが、ただ今回は初演だったのでこれからもっと良くなるかもしれない。
内容としても誰もが知っている情報(「カカオのプランテーションは植生を破壊している」「カカオ豆採取は児童労働、ほぼ無賃金の場合もある」「カカオ豆の消費はヨーロッパが特に多い」など)をもったいぶって・しかもあまり面白くない仕方で伝える、というものだったが、それをドイツの同僚に伝えたら「青少年演劇だから、青少年向けには改めて伝えるのは良いこと。私も自分の子どもに見せたいと思った」とのこと。それにしても、「子供はカカオ豆採取の労働をするべきでない! カカオと遊ぶべきだ!」と役者の一人が言って観客にココアパウダーをなでさせ、「どんな感じがする?」「とっても柔らかい・・・」なんてやりとりを見させられるのはちょっとキツかった。

4) Cie Gare Centrale/ Letters from my father

ベルギー式オブジェクトシアター(物をアニメートすることなく、ただ呈示することで物語る)を代表する「Gare Centrale」主宰のアニェスの自伝的作品。子供のころの先鋭的な感覚と想像世界、家族への微妙な心象を、小さなオブジェクトを呈示することによって、しかし矮小化することなく描き出し得ている点でさすが。観客の視線の操作もお手のもの。
少女時代、アニェスの両親は、ベルギーの植民地コンゴに住んでいた。時折手紙が送られてくる。「私たちはコンゴの若者の未来のための手助けをしているんだよ」「お前はいい子にして、勉強を頑張るように」「川にワニが出たよ」。送られてくる手紙をたよりに、アニェスは両親の生活やコンゴについて想像をめぐらせる。夢とうつつの間で生きているような少女アニェスの姿が、オブジェクトによって描かれる。想像を示すような印象的なオブジェクト(チョウチョ、赤いソファ、等々)が出るたびに、「いまの見えたの私だけ? それとも本当にあった?」と観客に毎回聞くのが笑いどころ。ベルギーの植民地政策の歴史は語られることなく、ただ手紙にあったキーワードから自由な想像が展開する。唯一、土から様々なオブジェクトを掘り返す時には、黒人の手と、血に染まった白人の手が出てきたシーンがあった。

5)Cie. Belova - Iacobelli (BE)- LOCO

チリの女優・演出家であるイァコベッリと、ベルギー/ロシアの人形遣いであるベロヴァが出会って、2018年に結成された新しいカンパニー。振り付けに、キャリアのある人形遣いNicole Mossouxが入っていた。イァコベッリが演出兼人形遣いとしても出てるんだけど、驚異のテクニック。
ゴーゴリ『狂人日記』のポプリーシチンのバストアップの人形を、二人の人形遣いが片足ずつ・片腕ずつ遣う。広い意味でのBunrakuか。完璧なコーディネーション。一人の役柄の足を二人の人形遣いが片足ずつ使ったのは、多分初めて見たと思う(一瞬遣うというのではなく、全篇を通してだからすごい)。二人が双子のように、髪型も合わせて完璧に操る、まずその技術の熟練が目を惹く。時折、両足を一人がつかうこともあるが、その際の入れ替えの素早さ、自然さも見事。
脚本は初めから最後まで『狂人日記』をなぞる形。ただしセッティングはすべて彼のベッドルームの中とされ、舞台美術の変更は行われない。舞台上にはずっとベッドが一台ある。そのベッドのブランケットやマットレスが、魚になったり話し相手になったりする。茶色のリネン類が変化する人形造形も見事。これは要注目のカンパニー。

6)Ariel Doron (DE) / MITZIS MENSCH

まだパイロット版で終わり方は再考中らしいが、さすがアリエル・ドロンという感じのクレバーさと技術を堪能できる作品だった。
しつらえとしてはTEDトークのようなプレゼン形式で、「シュレディンガーの猫」について思考実験をしよう、と観客に投げかける。生と死の両方の状態を兼ね揃えた「理論上の猫」はどんな姿をしているか?と問いかけ、「それはこんな感じです!」と人形の猫を登場させる。「人形は生と死の間にある存在のメタファーである」という形式は明瞭だし、しかもアリエルが自家薬籠中とするテーゼ。さらに、「観客は人間が人形を操っていると思っているかもしれないが、もし人形のほうが人間を操っていたらどうする?」「この人間は、しかも自分で動くようにしつけられているんですよ」と思考実験は続く。するとアリエル(=人間/操られる側)が猫(=人形/操る側)から逃げ出そうとし、実際に逃げ失せる・・・というのを一人芝居で見せるのだからすごい。
最後のシーンは、この劇場自体がシュレディンガーの箱である、という体になり(これはガス室の暗喩だろう)、プロジェクターの映像によって箱に穴があいたことが示唆され、その穴から猫人形が覗く。この終わり方は私は笑えてよかったのだが、チェコの同僚によれば、同様の結末はここ数年のチェコ人形劇で既に二回見たことがあり、ありふれているので変えるべきだそうだ。

7) Karoline Hoffmann (DE) - DING 

Julika Mayer演出。Mayerはシャルルヴィルの人形劇高等学校を出たあと、Renaud Herbinと二人でLà Oùというカンパニーをやっていたらしい。Herbinは(なぜか)売れっ子のマテリアルシアターの演出家/演者で、でっかい板とか袋とかを天井から吊して、それにかかる重力から生じる物の動きと、人間のダンス的動きを対比させる作品をよく作る。一つの物と一つの身体による一発ネタ(特に展開無し)を70分くらい見せられるので私は基本的に苦手。
ただ、この作品自体は、悪くない幼児向けマテリアルシアターだった。演者のKaroline Hoffmann が達者。用いられるマテリアルは、キャンプ・災害用具などで使われる、アルミホイルのような見た目の薄い軽量ブランケット。完全ノンバーバルで、このたった一つの素材の見た目や動きや音の面白さをさまざまに引き出す。子どもたちをよく惹きつけ、笑わせていた。

8) Ģertrūdes ielas teātris (LVA) - WOOD PATHS/HOLZWEGE

"MALKAS CEĻI" ir fiziska un vizuāla izrāde, kurā, spēlējoties ar koksnes materialitāti, simetriju un asimetriju, radošā...

Posted by Ģertrūdes ielas teātris on Friday, April 26, 2024

ひたすら男二人が丸太を切る、まずそれを40分くらい見させられる。ああ〜っ、このフェスのディレクターはこういうの(男二人が淡々と日常的動きを繰り返す、特にドラマは無い)が好きだったよな〜というのを見ながら思い出した。
この劇団はラトヴィアのインデペンデントシアター。人間対自然、人間と物の関係、という主題と取り組んでいるんだと思うが、舞台芸術として呈示する以上は、何らかの驚きや刺激があって欲しい。丸太を切るのを見せるだけで、あとは観客に考察や発見を委ねるというのはちょっと怠慢ではないか。
二人の男が丸太を切断する動き(木に斧を振り下ろすリズムが二人でまあまあそろっている)をひたすら見させられる。途中、丸太にくさびをうちこんで、縦に引き裂く。このときの「メリメリ」という丸太がたてる音が、「ものの断末魔」の響きで興味深かった(70分の作品中、面白かったのはこの瞬間だけ)。丸太を4分の1に切断したあとは、それをストーンヘンジ状に並べる(並べたものはそのまま置きっぱなし)。その後、白い模造紙を雑に体に巻き付けて目の辺りをくりぬいた「紙男」と、緑の草みたいなものを体に巻き付けた「緑男」みたいなのが脈絡なく登場し、無言のまま舞台上をぎこちなく動き回る。

9)Michal Svironi (ISR) - Carte Blanche

この作品はフェスティバルのクロージング作品。イスラエルのアーティストによる。そのウェブサイトの自己紹介には「クリエーター、クラウン、人形遣い、パフォーマー、画家」とあるが、この作品では画家としての技術のみが見られた。背景幕や自分の体にライブペインティングをしながら、ユダヤ人の祖父のビオグラフィや自身のアイデンティティを物語るという舞台。アニェスのように舞台に立って語り観客を惹きつけるだけの技術があるでもなく、「私が被害者ユダヤ人である以上は万人が私に耳を傾けるべきである」という前提に立たないと成立しないような自分語り。(成立していたということは、観客の大部分がその前提を共有していたんだろう)。語り&ライブペインティングという形式的にも、これを人形劇・・・というにはちょっと無理があるかなと私は思うが、シャルルヴィル世界人形劇祭にも出ていたし、広い意味で人形劇だと解している人がいるんだろう。
上演後には演者によるスピーチ。10月7日は第二のホロコーストであるという主張から始まって、一貫してガザの大量虐殺を正当化する内容。ドイツの観客も大きな拍手で応えていた。きつい。基本的にパフォーマーには敬意を示したいが、拍手をすることはできなかった。

ポルトガルのFIMFAで見た作品

1) Compagnie Karyatides (BE)   - Les Miserables (Os Miseraveis)  75mins

ヴィクトル・ユゴーの『ああ無情』の、ベルギー式オブジェクトシアター(物をあまりアニメートせず、呈示することで物語る)。リエージュのコンセルヴァトワールを卒業したKarine BirgeとMarie Delhayeのカンパニーによる。100点くらいはあるたくさんの陶器人形などのミニチュア人型人形を次々に出して、ジャンバルジャンとコゼットの物語を淡々と描き出す。背景幕とそこへのプロジェクションが美しくて効果的だった。
ベルギー式オブジェクトシアターは、操りの技を見せることもないので、アニェスとかアリエルみたいによっぽどオリジナルな台本かつカリスマ的役者だったり、観客の視点の操作によっぽど熟練してなければ、単調に感じてしまうことが多い(私は)。この作品は普通の二人の役者が『ああ無情』をそのままなぞるものだったので、私には見所が分からなかった。とはいえ、この作品は2015年のアヴィニョンのオフで人形劇カテゴリ内の一位をとったらしい。若い鑑賞者向けカテゴリでも批評家賞受賞。どの辺りが評価されたのか知りたい。(大文豪の作品を、若い観客向けに分かりやすく伝える、という意義もあるのかもしれない。例えば『フランケンシュタイン』のこの作品ページ、ここにも「学生向け」「教員向け」の情報ページが設けられている。)
この作品を見ながら、人形劇だと、役柄⇔役柄の交代、ナレーター⇔役柄の交代が俳優劇よりずっと自然に行われるということに改めて気付いた。役者の肉体と役柄が対応していないので、呈示する人形/物を変えることで、主体の変更を即座に行うことができる。

2)Musea da Marioneta

ポルトガルの手遣い人形の一種
博物館入り口

リスボンの「人形劇博物館」にも行った。フェスティバル事務局と同じ建物にあったので。ここは、ポルトガルだけでなく世界のパペットを集めた人形劇博物館。ライティングなど展示の仕方がしっかりしているし物も良い。アジア、アフリカ、ヨーロッパ、南米の人形がある(北米・オセアニアはない)。人形劇の世界で「ミュージアム・ピース」というのは褒め言葉ではなく、見るべき新しいところがなく博物館に収蔵されるべきものだという批判的な意味で用いられるが、博物館すらない日本人形劇の現状を反省させられた。
この博物館にはポルトガル人形劇の歴史が、それに寄与した一人一人の歴史と人形を伴うコーナーによって物語られていく。こうした展示は、文化の底を支えている人形劇人を正当に評価し、後継者を勇気づける点でとても意義深いし、啓発的だ。
一人のポルトガルの人形遣いの言葉、「スワズル[パンチ&ジュディで使われるような、声を変えるための金属性の器具]で台詞をしゃべるには口が渇いているとうまくいかないので、ワインもイワシもオリーブも人形遣いは食べてはいけないのだ」というのが、展示の説明書きにあった。国によって人形劇人の慣習も様々だなあと思うが、こういう涙ぐましい人形劇人のスピリットは共通だ。そのことを考えると感極まってきてしまった。人形劇人というのはお金のためでも名声のためでもなく、好きだからというだけで人形劇をしている。お金がなくても舞台上で人々の視線を集めることが嬉しい、というのは俳優劇の世界ではありうるが、人形劇ではお金もない上に舞台でも視線の先は人形で、舞台上で注目を浴びるということもない。マリオネットのような遣いが見えない形式ではなおのことだ。それにもかかわらず世界中に人形劇人がいるのだから、本当に不思議なことだ。お金も注目も名誉もないが、世界のすみずみに人形遣いはいる。
あと、カモンイス言うところの「ここに地終わり、海始まる」地であるポルトガル(ヨーロッパ西端)までいったプルチネッラの親戚を見ることができた。

ヨーロッパ西端のプルチネラ、ドン・ロベルト

3)Dromosofista /  Historieta de um abrazo

また、フェスティバルFIMFAで見た作品に戻ります。これはスペインとイタリアのかわいい二人組カンパニーDromosofista による、ノンバーバルの子ども向け作品。素朴な歌とギターとアコーディオンがつなぐ。短編のオムニバスという感じだが、色々と手を替え品を変えて飽きさせない。そこはかとない詩情も漂う。50分だったはずだが短く感じられた。
↑ 短いストーリーやトリックのオムニバスなので、このビデオを見れば大体どんな作品かわかる。

4)String Theatre (UK) - O circo de Insectos  35min

イギリスのマリオネット劇団。かなり操りがうまくて驚いたら、男性はなんとあのロンドンの船上劇団のお孫さんだとのこと。9歳から操りを始めたそうだ。まだ20代だろう。内容は、文字通りいろいろな昆虫のマリオネット(1920年代風!)が出てきてサーカスをする。それだけ。音楽は録音、二人のパフォーマー。虫は六本足なので、六本を操作するのはかなり大変。白いアリのバレエなんか簡単するほどうまかった。人形造形もクラシカルでよい。
演目は綱渡り、空中ブランコ、自転車、玉投げなど一通り。マリオネットは基本的にノロいので、テンポやリズムを作りづらく、セリフのある演劇作品にしようとすると退屈な作品になりがちだが、ノンバーバルの舞踊的作品に用いると、本当に瞑想的で独特の美しさがあると思う。クライストやベンヤミン(特にベンヤミン)も夢幻的な瞑想に誘われていたのではないか。
もう一つ、マリオネットという伝統芸を見ていて思うのは、人形劇はマニエリスムに陥りがちなのではないかということ。俳優の身体に依存する演劇は、若い肉体がその都度現れて時代に刻印された身体性を発揮するが、人形はそうではなく、同じ造形が何世代も残る。そのため表現の仕方(あやつりかた、および造形)がマニエリスム(一種の美であると同時に、一種の異様さももつ)になりやすいのではないか。

5)Formiga Atomica (PT)  - O Estado do Mundo (Quando Acordas),  50min

ポルトガルのカンパニー。これは「世界の現状」と題された二部作のうちの一作目『世界の現状(君が目覚めるとき)』。8才の少年は、目覚めてから寝るまで毎日様々な日用品を消費している。この少年の暮らしが、他の国の子どもたち(しかもみんな環境破壊によって影響を被っている:ゴミ捨て場近くで暮らす子ども/砂漠化してしまった地域の子どもなど)とモノの消費を通じていかに互いに結びついているかが語られる。
ちなみに二作目のほう『Terminal (O Estado do Mundo)/ ターミナル(世界の現状)』という作品が今年のアヴィニョン演劇祭のセレクションに入ったらしい。一作目の今回見たものは一人芝居で、二作目は4人の俳優と2人のミュージシャンによる大きな作品らしい。
【人形&舞台美術】舞台の上には球体の大きなオブジェクトと、月のような円型のスクリーン。球体から出てくるオブジェクトをカメラで撮ってスクリーンに映し出す、いわゆるライブシネマ方式。球体(=地球)は、8才の少年の家であるという設定で、ここから服など日用品がいろいろ出てくるが、さらにカラクリボールみたいに、ライブシネマのためのミニチュアセットがこの球体からいくつもいくつも出てくる。こういう風に趣味的に作り込んだ手の込んだ感じのセットはスペインでよく見るけど、ポルトガルにも同様の趣向があるなあ。

6)Fernando Mota(PT) - Sursum Corda60mins
ポルトガルの自作楽器演奏・サウンドアーティストみたいなおじさんと、アシスタント男女が二人。人形劇でもないし音楽もよくなかったので割愛。

7)リスボンのMAAT美術館で見た人形舞台展示:Bonecos de Santo Aleixo/ Centro Dramatico de Evora

Bonecos de Santo Aleixoの人形舞台。全面に紐がはってあり、それを通してみるのがなんとも乙
人形造形も良い
舞台裏から


MAATというリスボンの現代美術館で展示中だった、Tres Moscas (三匹のハエ)というポルトガルのアーティストグループ(1940-1960年代生まれ)のインスタレーション。その一環として、なぜかこの人形劇団の舞台美術の展示が併設されていた。これが素晴らしかった・・・

Bonecos de Santo Aleixoという伝統人形劇は、Alentejoという地域に伝わる伝統人形劇らしい。展示にあった説明によれば、起源は定かではないがおそらく18世紀に遡るとされ、口承によって受け継がれてきたが、1960年代から人々の興味を次第に失っていったとのこと。
舞台装置は幅2m×奥行き1.5mほどの木製のミニチュア舞台で、三方は木板に絵が描かれてそれが舞台美術をなし、観客との間の「第四の壁」には1~2センチ間隔の紐が張られていて、観客はその紐ごしに人形の動きを見ることになる。こののぞき見的な感覚が、神秘性を増していている。上部には二本のろうそくが立てられる。人形は木とコルクで作られ(展示物なので手に持てなかったが、他の欧州の木製人形に比べてかなり軽いのだろう)、布製のミニチュアの洋服を身につけている。12弦のポルトガルギターの生演奏と必ず一緒に演じられるらしい。テキストの内容は世俗文化と、宗教的説話が混ざったものだとのこと。観客との即興のやりとりもあり、laughter and catharsis(笑いとカタルシス)をもたらす人形劇なのだそうだ(MAAT美術館にあった解説より)。
この展示の会期中4回、ライブでの上演が予定されていた(私は見逃した)。1981年からCentro Dramatico de Evora(エヴォラ演劇センター)がこの人形劇の復元に取り組んでいるようで、彼らが上演することになっていた。中心人物はAntonio Talhinhasという師匠で、この人はBonescos de Santo Aleixoと40年以上一緒に仕事をしてきた。その協力で、基本的な操り方や、どの人形がどの役柄を演じるのか、音楽の内容、天使を示すろうそくの作り方、さらに用いられる火のトリックや、舞台の明かりとなるオイルランプの作り方のドキュメンテーションを行うことができ、その後Garcia de Resende劇場で上演したとのこと。その出張上演をこの美術館で5回行うということだ(私は見逃した。本当に残念だ!)。

↓上演しているビデオを見つけた。素晴らしい!

  

2024年のドイツのFIDENAとポルトガルのFIMFA、それぞれの人形劇祭のイスラエルに対する姿勢について   

                                             最後に、二つの人形劇祭のイスラエルに対する姿勢についてまとめて記しておきたい。

ドイツはボーフムという元炭鉱の田舎町、ポルトガルは首都リスボンで開催された。一方は周縁、もう一方は都市という違いもあると思うが、それにしてもドイツは様子がちょっとおかしかった。

私は二年前の2022年2月、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けた時にミュンヘンの中央美術史研究所に研究滞在していた。目の前がケーニヒスプラッツというデモ集会に使われる広場だったので、開戦直後からその広場がウクライナ国旗カラーに染まり、広場におさまりきらない程の人々が詰めかけるのを見ていた。週末はデモ隊の声でうるさくて、研究できないほどだった。それを見ていたので、イスラエルが大量殺戮を始めた時も同じようにとは言わないまでも小国に対する同様の連帯が見られるに違いないと思っていた。
まさかドイツの人形劇フェスティバルで、パレスチナに対する言及が一つもないどころか、クロージング作品で、イスラエルのガザ攻撃を全面的に支持する主張を目にすることになるとはあの頃は予想がつかなかった。

今回2024年のドイツのフェスティバルFIDENA(Figurentheater der Nationen:「国々の人形劇祭」の意)は、これまで30年近くフェスティバルのアーティスティック兼マネジメントディレクターを務めてきた人が引退前に最後に手がけるものだった。私は彼女から、今回は彼女の仕事の集大成として、これまで招いてきた無数の作品のなかで特に優れたものをふたたび呼び集める、と聞いていた。だからとても期待していたのだった。しかし蓋を開けてみれば、プログラムは彼女がこれまでやってきたものの「集大成」からはほど遠かったように感じた。クロージング作品はイスラエルの劇団(胸には「人質を返せ」のバッジ)のもので、しかも上演直後に彼らが一連の主張を行うのを全観客が見なければならない(しかも途中退席がほぼ不可能なキツキツの座席配置)という構成だった。イェルサレムの某人形劇祭のディレクターもゲストとして招かれていた。「いまイスラエルの人形劇団を呼んでくれるフェスティバルはほぼないからね」と言っていて、イスラエルの人形劇人もさぞ大変だろうとは思ったが、とはいえ歴史に残る大量虐殺を行っている国のアーティストやディレクターを招聘することで、フェスティバルも当然相応の責任を負うことになると思う。

もちろん、フェスティバルディレクターひとりに責任を帰するわけにもいかない。ドイツとポルトガルの国の姿勢が、プログラミングにも大きく影響しているんだと思う。ポルトガルで私が泊まったホテルの近くの地下鉄駅 Campo Pequenhoの大通りには「ヴィヴァ・パレスチナ。この虐殺を止めよう」との巨大な看板があった。ポルトガルでイスラエル不支持を表明するのはドイツよりは容易なんだろう。ポルトガルの人形劇祭FIMFAの参加国は、ポルトガル、イギリス、ベルギー、フランス、チェコ(パレスチナ出身アーティストと共作)、オランダ、スペイン、ブラジル、リトアニアだった。イスラエルの劇団を呼ばず、パレスチナのアーティストを招聘するのは、それ自体がパレスチナを支持するという一つの表明になる。現代人形劇界では、イスラエルの劇団のほうが遥かに多いし、フェスティバル向けの作品もイスラエルのほうが遥かに沢山作っているから。

人形劇祭は、人形劇人としての矜持を発揮する場であってほしいと思う。人形劇は昔も今も、見返りも無しに小さい弱いものの味方であり続けきたし、権力を嗤い欺き続けてきた。パレスチナの子どもの大量殺戮は人形劇人が見過ごせるものではないと思う。

「この虐殺を止めよう」


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