減点式よりも、加算式がよろし。
「無駄にある社交性」。
昔から自分を表現するのに、使っていたこの言葉。
よく、年齢を重ねる度に、人間としての「器」が大きくなって、いろいろなことが許せる、寛大になる、と聞くけれど、私はその真逆を行っているようだ。
かつては、「丼級」でなくても「小ぶりなお茶碗級」だった私の「器」は、もはや「おちょこ」級に小さくなった。寛大どころか、頑固さに拍車がかかり、私の目指すものは、外部にはない、「内なる世界」を追求するしかない、とまで思うようになった。
20代、30代の頃は、例えるなら「きゃ~きゃ~はじめまして」と、カバちゃん(っておねぇタレントがいたよね?)みたいなテンションの高さ、ノリみたいなもので、十分、他者と付き合えた。
それが、私の「無駄な社交性」はどんどん、その身を潜め、もはや、初対面の人にはブッダならぬ、仏像よろしく、言葉少なめ、表情少な目、ゴルゴ13ほどではなくても「俺の背後に立つな」的な緊張感を漂わせ、眉をひそめ、全体的にテンション低めで向き合うようになった。
思うのだけど、人間関係においては、最初はマイナスから始まって、徐々にプラスになる、それくらいが私にはお似合いみたい。
最初は「よくわからん、いけ好かないヤツ」、くらいから始まって、何年かして、「アレ? 今頃気づいたけれど、なんかdekonekoって、噛めば噛むほど味わいが出てくるスルメイカみたいに面白いヤツかも」と思ってもらえたら幸いかな~、と。思うのだけど、人間だから「好き」「嫌い」はあって当たり前。大事なのは「ウマが合う」これに尽きる。
人間関係において、「好かれよう」「嫌われたくない」というのは自分が勝手に自分を縛っている「呪縛」で、そういうところから、ひとまず脱却してみる。この世は、「ウマが合わない」人の方が圧倒的に多いから「ウマが合う」人の大切さを知るのだ。
あと、「好かれなくて結構」「嫌われてナンボ」くらいに構えていると、意外に、自分が思った以上に他人から興味を持たれたり、するものよ(それを望む、望まないか、は別にして)。
昨年は、「人間はパンを食うために生まれたわけではないはずなのに、なぜ私はパンを食わねばならぬのか」、という禅問答のようなテーマに悩んだ時期もあったっけ。
今年は、「破壊からの創造」をテーマに掲げながらも、文章を書く上での「これまでの文体の破壊、新たな創造」って、ホント、難しい。
これに懲りず、また徒然にお付き合いくださいませ♪
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