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【連載小説】「北風のリュート」第51話<最終話>

前話

第51話:北風のリュート(2)
《龍穴が開いた。龍人の娘よ、頼んだぞ》
 竜巻のごとき突風が洞の奥から吹きつけ、レイは慌てて風琴を胸に抱きかかえた。『龍秘伝』の蓋が閉じ、ひとりでに舞い上がってレイの胸もとに収まる。レイはそれを不思議に思う余裕もなく、疾風に目をつぶった。
 竜巻がレイの足もとから渦を巻き上げ、あっという間にレイを包み、洞の奥へと旋回しながら消える。龍穴はその渦に吸収されるがごとく閉じ、洞には静寂な闇が残された。
 
 何が起こったのか。一瞬のことにレイは翻弄される。体が激しい風に舞い上がった。風を駆って大地を飛翔する疾走感。空を駆け抜ける爽快感。忘れていた感覚が体の深奥から目覚める。
《大丈夫よ》
 くぐもった声が体の内から脳天に響いた。
 巫女として崇められる姿、御簾みすをあげて月を眺め、小袖姿で走り、子を産み、娘に風琴を授け、戦火をくぐり、野山を駆け、空を懐かしみ、嘆き、笑い、哀しみも喜びも流れていく。ああ、これは、この地で生きたヒミカのDNAの螺旋の記憶だ。私は風に乗って時を遡っている。
 ごおぉっと風が雄叫びをあげると、レイは氷の大地に降り立っていた。レイを運んだ竜巻は天高く去った。
 目の前には高く聳える氷の双璧があった。蒼空が映りこみ、きらめいている。光の帯が幾筋も降り注ぐ。神々しい光景にレイは言葉を失う。胸の深奥が熱くなる。きっとヒミカが懐かしさに涙をこぼしている。レイは氷の回廊を進んだ。
 奥に氷の壁が円形に取り囲む空間があった。一頭の巨大な龍が横たわっていた。鱗が銀の光を放つ。胸に抱えた風琴が、鱗に共鳴したのだろうか、ひとりでに鳴った。
《龍人の血を継ぐ娘よ。久しいのう》
 龍が首をもたげレイを見つめる。レイは一瞬たじろいだが、龍の眸に恐ろしさは微塵もなく、懐かしみ慈しむようなまなざしがあった。
「あなたが、北風の龍?」
《いかにも》
「ここは北の最果ての谷?」
《かつて存在したが、今は存在しない谷。我が一刃は大地を二つに割いた。ここはいつの頃からかベーリングと呼ばれておる。かつては蝶番ちょうつがいの谷と呼ばれていた》
「ユーラシア大陸とアメリカ大陸の継ぎ目の」
《然り。今は海の底に沈んでおる。そなたの目に映っている谷は、かつての谷の記憶じゃ、我と共に眠っていた古い記憶の幻よ》
 龍がむくりと体を起こす。
《我の一撃は、南龍の腹も傷つけた。それをフォッサマグナと呼ぶらしいのう。すべて我が過ちじゃ》
 日本列島の溝といわれるフォッサマグナは、荒れ狂う南龍を鎮めようとして北龍がつけた傷だったのか。北龍の哀しげなようすに、レイは思わず風琴を奏でる。胴は北龍と南龍の逆鱗、弦は北龍の髭と龍秘伝に記されていた。
「風琴はリュートに似ているのね」
《人が風琴を真似てこしらえたからな。龍人の奏でる筝ゆえに、リュートと呼んだ》
 かつて龍と龍人は、人と共にあったのだ。龍は風雨を起こし、森羅万象を司るものだった。そして、その背には常に人と龍をつなぐ龍人がいた。
《そなたが参ったということは、我の助けが要るということであろう》
 レイは鏡原の空に起きていることを語った。風蟲ワームが変異した赤毒風蟲せきどくワームが鏡原の空に蓋をし、風徒が激減し、人々は呼吸困難に喘いでいるのだと。
《急がねばなるまい。乗れ》
 北龍は首を低く地に這わせる。レイは龍の背に跨り、風琴を抱える。
《奇しくも明日は七の新月。今旅立てば、明日には間に合おう。南龍とスサに邂逅するには、ふさわしき日よ。参るぞ》
 北風の龍はレイを背に乗せ、氷の谷から竜巻を起こして舞い上がった。
 
【7月1日】
 北風の龍の背に乗り太平洋を南下した。初めて乗るレイを気遣い疾風ぐらいの速さで飛んでくれた。
《見えるか。大和の地は、南龍の姿をしておるであろう》
 丸一日かけて日本上空に着いた。北龍のいうとおり、日本列島は龍の姿をしている。はるか上空から眺めると、横たわる龍の腹のあたりが赤く爛れてみえる。あそこが鏡原か。
《鏡の地が赤く爛れておるな》
 龍は高度を下げた。鏡原上空に近づくにつれ、赤い瘡蓋が鏡原盆地に蓋をしているのがよくわかった。
《では、喰らうとしよう》
 北龍は尾をくねらせ下降すると、風を起こし、赤毒風蟲を水でも飲むように喉へと流し込む。東の空から順に空が晴れ渡っていく。瞬く間に、鏡原を覆いつくしていた赤い瘡蓋が龍の腹に呑み込まれた。レイはその間ずっと風琴を掻き鳴らし続けた。その調べは、ひゅるひゅるるるるると、風の音となって鏡原の空に響きわたった。
《大地をなだめ冷やさねばな》
 七月だというのに、龍は粉雪を降らせた。雪は鏡原の熱気にたちまち溶けて消える。北龍は大地が冷えるまで雪を降らし続けた。
《他にも赤毒風蟲が発生している場所があるな》
「わかるの?」
《放っておくと鏡原の二の舞になろう》
 龍は舞い上がり東へと飛翔する。甲南市と長戸市の赤毒風蟲も喰らう。
 鏡原に再び舞い戻ると、北龍は基地のエプロンにレイを降ろした。
《我は消ゆる。だが、風徒は我が眷属であり分身でもある。我は風徒として常にそなたの傍にいる》
 北龍が最期に笑みを浮かべたようにみえた。一陣の風を起こすと、龍の体躯は無数の風徒に分かれ、生まれたての風徒たちはくるくるとレイの周りを泳ぎ、青い空へと散っていった。
《レイよ、ヒミカの娘よ。さらば》
 透明の魚が悠々と泳ぐ鏡原の青く美しい空が戻った。
 
 
 まもなく記者会見が始まる。
 流斗は病室の窓から暗く淀んだままの空を見上げる。傍らのベッドには眼帯をつけた迅が横たわっている。『赤い瘡蓋掃討作戦』の失敗を伝えねばならない。瘡蓋を除去できなければ、住民は帰る場所を失くす。池上と榊原からは、「おまえは出なくていい。矢面には俺たちが立つ」と言われたが、そんなわけにはいかない。自分が立てた作戦に、池上や榊原を巻き込んだのはむしろ流斗だ。逃げることなんて許されるわけがない。
「タッチー、行ってくるよ」
 迅の右目を台無しにし、彼からイーグルを取り上げたのは自分だ。悔やんでも悔やみ切れない。
「失明は流斗のせいじゃない。自分の動体視力を驕る気持ちが俺を油断させた。それだけだ。勘違いしないでください。俺たちをここまで引っ張り、皆の気持ちを一つにしてくれたのは、まちがいなく流斗、あなただ」
 流斗はぐっと奥歯を噛み締める。
「おい、あれは何だ!」
 空を睨んでいた池上のダミ声が病室を震撼させた。
「おお、赤い瘡蓋が消えていくぞ」榊原も窓辺に駆け寄る。
 病室の窓は横に長く大きい。鷺池も咥えていた煙草を落とし、榊原を押しのけて窓に顔をつける。
 禍々しいほど赤黒かった空が、みるみるうちに東から晴れていくではないか。室内がどよめきに包まれる。西の空に虹色に光る細長い帯がある。まるで虹が、赤い瘡蓋を喰らっているように見えた。
「レインボー……」流斗がぽつりと漏らす。
「レインボーだよ、タッチー」流斗は迅の背を支えて起こす。
「タッチー見える? レインボーが、レインボーがやり遂げたんだ」
「美しい……ですね」
 迅が包帯で覆われていない左目をせいいっぱい開ける。
「環水平アーク。最も美しい虹だ。ぼくたちのレインボーだ」
 北龍が陽にきらめく姿は、環水平アークのように虹色に輝き鏡原の空にたなびく。気象オタクの憧れの虹が、晴れ渡った鏡原にかかっているようだ。レインボー、と流斗は心で呼びかける。まさに君は美しい希望の虹だ。
「環水平アークは、水平に伸びるから水平虹とも呼ぶんだよ。親戚に環天頂アークがあるけど、朝や夕方に空の高い位置にしかできないし短い。環水平アークは昼に長く伸びるから、最も美しい虹なんだ」
 解説を始めた流斗の隣に気象研究所の高塚所長が並び、無言でうなずいている。
「何ということだ、七月なのに。あれは雪か」
 池上がまたダミ声を散らす。榊原、鷺池の三人の猛将たちが団子になって窓にかじりついている。
「風花天地を鎮め、か」流斗が昂奮ぎみにつぶやく。「タッチー、口伝どおりだ。雪のことは風花という」と言いかけ、はっとする。「そうだ、今日は新月だ。『七の新月の夜になると羽毛のような雪が降り始める』そのものじゃないか」
 40度超えの熱気に覆われていた七月の鏡原に雪が舞う。雪が大地を宥めるように降る。
「虹が降りて……いや、あれは龍か。虹色の龍が降りてくるぞ」
 榊原が信じられない光景に声を震わせる。
 北龍が基地のエプロンに舞い降りる。その背からレイが降りると、龍の首を抱き額を寄せて口づける。すると、虹龍の姿は幻のごとく消えた。
「虹龍鏡に消ゆ、か」
 レイが空に向かって手を広げているのが病室の窓から見えた。きっと風の魚と戯れているのだ。その証拠に風がくるくると踊っている。
 
「迅!」
 レイが風琴を背に駆け込み、ベッドの迅に抱きつく。
「北龍の言ったとおりね。右目が見えないの?」
 レイが迅の眼帯にそっと手を置く。ポケットから銀の水晶珠を取り出す。
「ひょっとしてそれ龍の宝珠? どんな願いも叶うという」
 流斗が尋ねるとレイがうなずく。如意宝珠っていうんだって。
「迅、右胸に痣ができていない?」
「なんでわかった? 医者はベイルアウトの風圧か、パラシュートから落ちたときの打撲でついたんじゃないかって」
「ほんとはね、それ、致命傷になるくらいだったんだって。でも、南風の龍が守ってくれたそうよ」
 迅が不思議そうな表情を浮かべる。レイが昂奮を抑えきれずに話す。
 太古の昔、南風の龍人のスサは右胸に矢を受けて死んだ。南龍はスサを守れなかったことを後悔し続けてきた。迅もベイルアウトの風圧で同じ右胸に致命傷を負いかけたが、南龍が守った。
《迅といったか。あの若者はスサの血を引いておる。猛々しく優しきスサの血だ。傷ついた右目は我が南龍に代わって治してやろう》そういって、宝珠をくれたのだという。
 レイは水晶珠を迅の眼帯の上にあてる。しばらくそうしていると、珠はすうっと消えてなくなった。レイが迅の眼帯を外す。
「目を開けてみて」
 迅がゆっくりと閉じていた瞼をあげる。皆の目が迅に集まる。迅は左目を押さえて、右目だけであたりを見回す。
「見える、見えるよ。レイ、ありがとう」
 流斗はもう涙を堪えることができなかった。ぼろぼろとこみ上げる嗚咽を我慢できない。
「ぼ、ぼくは……鏡原の空を救えず……自衛隊を、多くの人を巻き込み……迅を失明させてイーグルを奪い……」
 言葉が続かなかった。
「それは違いますよ」
 病室の隅にいたアンパンマン市長が静かに前に出る。
「本来は、私たち行政が対処すべき問題だった。それを研究者でしかない君にすべてを負わせた。謝るべきは私たちです。君は多くのことを教えてくれた。自然災害はもはや有事です。全住民避難は起こるべきこととして計画を策定しなければならない。盆地の鏡原は、油断するとまた空の赤潮に見舞われる。それをどうするか。風の通り道を人工的に造ることも踏まえて喫緊の課題です。そうした大事なことに気づかせてくれた。感謝しかありません。ありがとう」
 市長がアンパンマンそっくりの丸顔を引き締め頭を下げる。
「この世界を、鏡原クライシスを救ったのは、まぎれもなく天馬流斗、小羽田レイ、立原迅、君たち三人のリュートだ。国防を預かる将として、君たちに心からの敬意を表す」
 池上、榊原、鷺池がぴしりと背を立て敬礼する。
 流斗は左腕で涙をぬぐい、さまにならない敬礼を返す。
「ずっと私の世界には、私しかいなかった。空を泳いでたなびく魚の群れは美しかったけど、その感動を誰ともわかちあえなかった。それを変えてくれたのは、流斗と迅よ」
 レイがその切れ長の美しい目で、まっすぐに流斗を見つめる。
「私、気象研究官をめざす。流斗のように、空オタクをめざす」
 窓の外には青く輝く鏡原の空が広がる。
 池上が窓を開け放つ。
 三人のリュートを讃えるように、風が舞い込んだ。

 そこは世界の蝶番のような場所だった。
 東と西の大地の深くえぐれた裂け目は、太古の昔に一頭の巨大な龍がつけた爪痕だと伝えられている。底なしの谷から唸り声をあげて天へと疾風が舞い上がるのを風の龍と呼んでいた。竜巻と呼ぶものもいる。
 七の新月の夜になると羽毛のような雪が降り始める。
 北風がその大いなる翼で大地と地に棲む人々を翻弄するころ、北風に乗ってやってくるものがいた。彼らを龍人と呼んだ。
 遠い昔の忘れられた地球の子守唄のような記憶だ。  

『龍秘伝』「伝承」

風龍幽谷に隠れ 龍人風徒秘す
三密鳴動すれば 風穴道をひら
風花天地を鎮め 虹龍鏡に消ゆ

『龍秘伝』「口伝」


<完>


環水平アーク(出展:Wikipedia)



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