【ミステリー小説】腐心(1)
死後五日は経っているのに、死体の腐敗はほとんど進んでいなかった。
連日、三十五度を超える猛暑日がひと月近く続いていた。
H県警東野署刑事課巡査部長の香山潤一は死体発見の第一報に、不謹慎だが一瞬、顔を顰めた。「最高気温は三十八度、今日も熱中症警戒アラートが発令されています」と朝のニュース番組で気象予報士の女性が嫌味なほど爽やかに告げていた。朝からねっとりとした暑さがはびこる。死臭はそうとうのものだろう。やれやれ。香山は椅子の背にかけていたスーツの上衣をとり、大判のハンカチを尻ポケットにつっこむ。着任二年目の樋口武史巡査は「車を回してきます」とすでに駆け出していた。
刑事を続けていると、遺体の外的な損壊状態や凄惨な血飛沫には比較的すぐに馴れる。だが、腐乱の進んだ遺体が放つ饐えた悪臭は、喉ばかりか目も刺激し臓腑をかきむしる。刑事になりたての頃は、臨場のたびに吐いて班長にどやされた。刑事歴八年、三十歳になった今はもう嘔吐することはないが、吐瀉物が逆流してくる感覚はいまだに消えない。
まだ午前十時を回ったところだというのに、助手席から降りた瞬間に熱風が全身にまとわりついた。この暑さだ。二日もあれば強烈な腐乱臭を撒き散らしているだろう。
「はんぱねえ、暑さっすね」
樋口は路肩に車を停めると、数歩も歩かぬうちに首筋から吹き出す汗をぬぐい香山を追う。元ラガーマンだけあって、上背もありでかい。小柄な香山はいつも斜めに見上げるようにして指示する。
「第一発見者を探して、遺体発見時のようすを聞いておいてくれ」
樋口を表に残し、香山はビニールの靴カバーをつけて玄関の三和土に足を踏み入れた。
遺体発見現場は、桜台町のニュータウンの一画にある空家だった。
昭和50年代に宅地造成されたニュータウンは、どこでも空家が増えていた。なかでも、開発当時もてはやされたテラスハウスと呼ばれる二戸一や三戸一の家屋は、隣家と壁を共有しているため建て替えが難しく、中古市場でもめったに売れない。高齢夫婦が亡くなると、独立している子世代が住むはずもなく放置される。ぽつぽつと欠けた櫛のように空家が年々増える一方で、行政も頭を悩ませていた。
そのうちの一軒で、住民ではない高齢男性が遺体で発見された。
玄関脇にあるリビングの床に死体が大の字で仰臥しているのが見えた。
香山は細く息を吐き、臓腑に悪臭を迎え入れる体勢を整えて室内に入る。と、すぐに違和感を覚えた。喉を圧迫するほどの容赦ない腐乱臭がしないのだ。室内は熱し過ぎたサウナのようだった。熱風による息苦しさが、嗅覚をおかしくしているのだろうか。香山は頭を左右に数度振り死体に近づいた。自殺行為かと逡巡したが、鼻から大きく息を吸い込む。鼻腔をすり抜けた空気は喉をくだって肺腑に至る。
あの喉を悶えさせる刺激がない?
汗と埃の臭いはした。だが、猛烈な腐乱臭がしない。どころか、見下ろした遺体の皮膚には蛆はおろか蠅すらたかっていない。
香山はまず自らの嗅覚を疑い、次に目を疑い、ご遺体の傍らに呆然と膝をつき合掌した。
「生きてんじゃ……ねえのか」ぼそりとつぶやく。
向かいで指紋採取していた鑑識の浅田が、額から汗をしたたらせにやりとする。
「おそらく死後五日ってとこでしょう」
どういうことだ。香山は激しく混乱した。
(to be continued)
第2話に続く。
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シロクマ文芸部の新企画「新しいジブン」に参加します。
初のミステリーに挑戦します。
が……少なくとも5話ぐらいになりそうなので、とりあえず、1話を投稿いたします。
続きは、追って公開する所存です。