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自分の幸せのものさし

たとえばある朝のごはん。

宮城の叔父がつくった新米のおにぎりと、農家の友人が丹精込めてつくった大豆を使ってできた味噌の味噌汁、その具ははたまた別の友人が作ったナスと東日本大震災のボランティアがきっかけで時々行くようになった気仙沼大島の漁師さんのワカメ。

こんなとき、わたしは心底幸せだ。

自分自身の体に入れる食べ物を作っている人の顔がわかる。顔だけじゃなくて、それを作るときどんな風に大変なのか、どんな風に作業をしているのか、その人は仕事以外の時はどんな表情をするのか、何か好きなのか、嫌いなのか・・・がわかるともっと幸せだ。

自分の等身大の暮らしの中で、身のまわりのモノから大切な人たちを感じられること。

これがわたしの幸せのものさしだ。ブランドのバッグや洋服を身に着けることでもなく、高級なレストランで食事をすることでもなく、1泊何万円のホテルに宿泊することでもないみたい。

そして、そんな人を自分の五感をフルに使って「感じる」ために、わたしは場から場へと移動しているんだなぁと。旅行しているのではなくて、一瞬かもしれないけれど、「いつもの暮らし」を共にしたい。なんかそんな感じ。

木こり修行中のパートナーが、山から名も知らないキノコやコースターや鍋敷きにどうかなぁと、自分が切った木の端材を持ち帰ったりする最近。食べるものだけでなく、日常に使う道具を通して大切な人の顔が見えることは、わたしにとって幸せなことだ。たぶんほかの誰かにとっては、謎のキノコとかホント食べたくないだろうし、加工していない木なんて虫がいそうで絶対無理だったりするんだよね。

そう、幸せのものさしはみんな違う。

誰かのものさしで計った幸せは、自分自身を苦しめるだけ。他人のものさしを気にして生きてると、自分が自分ではなくなっちゃう。幸せを偽ることは、自分を偽ることだと思う。偽った自分を好きな人が周りに集まって、さらに偽らないといけなくなる。食べたくない不安だらけのキノコを食べなよと押し付けられて、笑顔で「おいしい、ありがとう」って答えるから、またもらっちゃう・・・幸せどころかお気の毒。

誰が何と言おうと、「わたしはこれが幸せ」だと知っておくことは、とっても大事なことなんじゃないかな。たとえそれが、すごく変かもしれなくても。そもそも「変」って誰のものさしで決めてるの?っていうハナシですよ。もしくはその一風変わったところが、『らしさ』であり、その人がその人であることにつながるんじゃないかな。

見出しの写真はかわいい姪が手作りしてくれた時計。さすがに時計の機能は果たしていないけれど、大事な人が作ってくれたものを身に着けるって、やっぱり幸せだなぁと思うわけです。

久しぶりの作品となりました。なんか良いこと書かないと・・・って心のどこかで思っているのかもしれません。最後までお読みいただき、ありがとうございます。またこちらでお会いできたら嬉しいです。


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