あたしの心 雨フラシ_2023/5/6


平日はそのほとんどを屋内で過ごすため、あまり天気を気にする習慣がない。
天気予報をチェックするのも3日に1回ほどである。
今日のような一日中ずっと雨が降っている休日は、それゆえ
「せっかくの休日なのに」感を人一倍強く感じていると思う。

突然の悪天候に対して、心を準備していないのだ。


古くから雨を題材にした音楽、絵画、詩などは数多く存在するが、そのテンション感は
「よっしゃー雨サイコーふっふー!!!」というものよりも
「あぁぁ……降ってるなぁ……」というものの方が圧倒的に多い。

かつては天気予報の信憑性もだいぶ低かっただろうから、
雨を題材にした作品を遺した偉人たちの置かれていた状況も、
今の自分と似たところがあると思う。
つまり、雨を予見できていなかったのだ。

一週間前から『X月X日は雨が降るよ』と知らされていれば、
多少なりとも雨への嫌悪も軽くなるだろう。
買い物をその日までに済ませておこう、とか、
その日はずっと家にいるから今のうちに新しい本でも買っとくか、とか、
そういう準備ができる。

雨を予見していない人間は、それができない。

とりわけ、雨は服や身体を濡らし体温を下げさせ、また視界を遮り、耳に雑音を与える。
人間にとって、直接的なメリットがあまりないのだ。
「草木が潤い云々」みたいな話をするヤツ、じゃあお前は普段から自分そのものよりも草木を大事に思いながら生活してるんですか?

雨は、文字通り降って湧いた災難なのである。


何をさっきから同じことを繰り返し言っているんだ、と思われても仕方がないのだが、
しかしこの『雨の突然性』というものは、今日話したいことの核を上手く表す身近な例なのである。くどくてごめんなさいでした。

つまり___あらゆる物事の成因についての知識があれば、災難は生じ得ない。

分かりづらいと思うから雨の例を挙げると、
『雨』というものがどのようにして生じるのかを完璧に理解し、雲の動きを遠い未来まで完全に予測できれば、雨に辟易することがなくなる。逃げられるかもしれないし、逃げられなくとも諦める準備ができる。

もしかしたら、これが極まると死への恐怖も和らげられるかもしれない。

生きとし生けるもの必ず死ぬ、という事実は当然の知識として誰もが身につけている。
のであれば、それに何を恐れることがあろう、と。


何も人類の崩壊を望んでいるわけでも、自ら三途の川を渡りたいわけでもない。
ただ、自分の死を怖がる謂れはないというだけのことだ。
他人の死を悲しむ理由もない。
盲目的で激情的、筋道の通らない感情は、自分の心から湧いた真の意味での感情ではなく、他からの刷り込みの結果である。真に受けることはない。



___分かっているのに、その人の死を考えると涙をぼろぼろ溢してしまうような、そんな人がいるのは、一体何故なんだろう。これも刷り込みなのだろうか。




雨の休日は、こんなことばかり考えてしまう。

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