「それでも、私は、ヴァンパイアにならないよ」:変容的経験の哲学と『今夜ヴァンパイアになる前に』について

「ねえ、私ヴァンパイアになりたい! ヴァンパイアになろうよ! きっといままで体験したことがないような、新しくて輝かしくて魅惑的な経験ができるに違いないよ!」
「ごめん。私はならないよ」
「どうして? 」
「私は……私であることが好きだと思う。私はヴァンパイアになるのではなく、私になりたいのだと思う。私であることの可能性をさらに探求してみたいのだと思う。私であることをすぐには変えたくないんだ」
「でも……あなたとだったらヴァンパイアになることはすごく楽しいと思うんだけど……」
「そうだね。楽しそうだ。でもいいんだ。誘ってくれてありがとう」
「私は……なるよ? ヴァンパイアに」
「うん。そうだね。君は君のしたいようにするんだ」
「……一緒にいれなくなるよ」
「よく分かってる。それでも、私は、ヴァンパイアにならないよ」

あなたの愛する人が言う。「私と一緒にヴァンパイアになろう?」

ヴァンパイアになったとしたら、あなたはその瞳で誰でも愛したい人を魅了することができ、空をその翼で飛ぶことができ、不死になる。だが、生き物の血を吸わなければならず、昼の世界を歩けなくなる。けれど、ヴァンパイアになったら二度と人間には戻れない。

あなたはヴァンパイアになりたいだろうか? あなたの愛する家族・友達・恋人と一緒にヴァンパイアになりたいだろうか?

『今夜ヴァンパイアになる前に』(L・A・ポール)は、決断をめぐる哲学である。ヴァンパイアになる、子どもをもうける、一か八かの治療を受けるなど、一度経験したらもとには戻れないような経験=「変容的経験」をするかしないか、私たちはどうやって合理的に選択できるのかを論じている。

ヴァンパイアになったら、私たちの好み=「選好」は完膚なきまでに変わってしまう。私は動物の血が好きじゃなかったのにそれを愛するようになる。もしかしたら、人間の血を好むようになってしまうかもしれない。あなたはヴァンパイアになるかどうか、合理的に判断できるだろうか?

とてもむずかしいはずだ。なぜなら、いまの自分から見ていいか悪いかを判断するしかないが、一度ヴァンパイアになったら、その良し悪しの基準すら変容してしまうから。私たちは、自分の世界観すべてが組み変わってしまう未来の私が今の私と比べて良いのかどうか予測ができない。

「子どもを作らない?」
「好きな人ができたんだけど、3人で付き合ってみない?」
「一緒にドラッグをやってみない?」

これらはみんな変容的経験である。一度してしまったら、私たちの選好が組み変わる。「辞めることもできるよ」と言うかもしれない。だが、一度してしまったら、一度した私になってしまい、それまでの私とは決定的に何かが異なる。

意外にも、ポールはヴァンパイアになるかどうか、合理的に判断できると言う。キーワードは「発見」だ。

あなたのタイプの経験のもとで自分の人生がこの先どう展開するかを発見したいのかどうかを、あなたは決めるのだ。……あなたは、発見そのものを目的としてその経験を選択しているのである。

『今夜ヴァンパイアになる前に』130.

あなたはヴァンパイアになってみたらどうなるのかを知るために、ただそれだけのためにヴァンパイアになるかどうかを考える。「変容的な経験とその諸帰結を引き受けることを選ぶなら、たとえそのことから、ストレスや苦しみ、痛みの伴う未来がもたらされるとしても」あなたはヴァンパイアになるとはどういうことかを知るためにヴァンパイアになる、という選択ができる。

これがなぜ「合理的」と言えるのかは本書を読んでもらおう。私が論じたいのは次のことだ。

ヴァンパイアにならないという選択にはなんの発見もないのだろうか?

本書でのポールの口ぶりは、私の感じ取ったところ、この発見を称揚しているようにも聞こえる。彼は、変容的経験をすることが、チャレンジングで、未知へと飛び込むような素晴らしいものだ、というニュアンスをこっそりと響かせているような気がした。

それは別によい。だが、変容しない、という選択はそれほど地味でありふれていておもしろみのないものだろうか? 変容しない、ということにはなんの発見もないのだろうか?

発見がある、と私は言いたい。結論を言おう。選ばないことで発見されるのは、自己である。私たちは、ヴァンパイアになるかどうか、という選択肢を提示される以前には、自分であることを選んでいなかった。ふつうに生きている中で、私は私を選ぶ必要がなかった。

だが、私の愛する人が言う。「私と一緒にヴァンパイアになろう?」。この瞬間、私は、ヴァンパイアへと変容するか、あるいは、ヴァンパイアにならない私へと変容するかを決断するのだ。

私は、ヴァンパイアにならない。

ヴァンパイアにならない私は、いままで私が出会ったことのない私である。それは一見いままでの私と代わり映えしない。しかし、ヴァンパイアにならない私は、ヴァンパイアになる、という可能性を捨てて、ヴァンパイアにならない私、という人生を決断している。それは劇的な選択であり、その選択を取ってしまったら、私の選好は変容する。ヴァンパイアになるかどうかを選ぶ前の私は、ヴァンパイアになりたいか、なりたくないか、その選好があいまいだった。けれど、一度、ヴァンパイアになることを諦めた私は、ヴァンパイアにならない新しい私になる。同時に、その私は、古い私でもある。より私に近づいていくような私であり、古い発見をするのだ。

それは巨大な発見だ。私は、ヴァンパイアにならない私として生き始めるのだ。

人は2種類に分けられる。機会があればすぐにヴァンパイアになる人間とヴァンパイアになることを選ばない人間だ。言い換えれば、機会があれば、変容的経験をためらいなく選び取り続ける人間と、それにためらいを覚え、選ばないことを選ぶ人間だ。

どちらがよいというわけではない。わるいというわけではない。けれど、この2つの人間像は、混じり合うことが少ないのかもしれない。ヴァンパイアになりたがる人は、新しい発見を喜ぶ。だが、ヴァンパイアにならない人は古い発見を喜ぶのだ

私は、おそらく、古い発見を喜ぶタイプの人間なのかもしれない。

「ねえ、私ヴァンパイアになりたい! ヴァンパイアになろうよ! きっといままで体験したことがないような、新しくて輝かしくて魅惑的な経験ができるに違いないよ!」
「ごめん。私はならないよ」
「どうして? 」
「私は……私であることが好きだと思う。私はヴァンパイアになるのではなく、私になりたいのだと思う。私であることの可能性をさらに探求してみたいのだと思う。私であることをすぐには変えたくないんだ」
「でも……あなたとだったらヴァンパイアになることはすごく楽しいと思うんだけど……」
「そうだね。楽しそうだ。でもいいんだ。誘ってくれてありがとう」
「私は……なるよ? ヴァンパイアに」
「うん。そうだね。君は君のしたいようにするんだ」
「……一緒にいれなくなるよ」
「よく分かってる。それでも、私は、ヴァンパイアにならないよ」

難波優輝(なんばゆうき 現代美学)2022/10/14

※『今夜ヴァンパイアになる前に』を一緒に読んでくれた人に感謝する。





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