自殺を悪いことだとは思わない。だけど、周囲の人間に自殺してもらいたくない。

自殺について二重の態度を持っている。自殺を悪いことだとは思わない。だけど、周囲の人間に自殺してもらいたくない。これは矛盾しているのだろうか。していない、というのがわたしの考えだ。

まず、わたしは自殺が道徳的に悪いことだと思わない。自殺を非難し、嘆く者のほとんどは、その人にとっての大切な者が失われた悲しみか、自殺による生そのものへの無価値さの証明によって気分を害する善良な人間たちの苛立ちをいい感じに言い換えた感情の表出だ。これらはどれも自殺した当人が負うべきものというよりも、周囲が勝手に自殺者に負わせる重荷であり、自殺者が他人から引き受けるべき道徳的悪などない。

加えて、自殺は根本的に合理的である。この世の人生のすべては、当人にとって生きるに値しない。様々な心身の障碍、過酷な環境、人々との付き合いと別れ。世界のすべては不幸の花を咲かせる種子である。たとえあなたがいま幸福だとしても、これから一切の不幸を免れることはできない。幸福が続くとしても、あなたはどこかでどんなに小さくとも不幸な体験をするだろう。生き続けたのならあなたはほどほどの幸福とほどほどかそれ以上の不幸を感じるが、もしあなたが死ねば、すべての幸福は消え去ると同時に、すべての不幸もまた消え去る。あなたは死によって一切の不幸に思い悩む必要がなくなる。さて、現在、人間は生きながら一切の不幸を回避できない。だが、自殺は一切の不幸を消し去る。したがって、自殺は合理的な選択である。

(注意しておきたいが、他殺の場合はかなり事情が異なる。自殺が合理的であって生き続けることが不合理であっても、他人が他人の不合理な選択に口を挟むことは条件なしには許されない。たとえば、わたしはまだ自殺していないが、これはわたしが意識的に愚かなことをする愚行権をわたしが行使していると考えてもらいたい)

つまり、わたしは、自殺を悪いことではなく、合理的でさえあると思っている。だが、周囲の人々には自殺してもらっては困る。これは矛盾しているのか。一貫していないが、矛盾はしていない、とわたしは考える。なぜなら、わたしにとって彼らが生きていることは価値があるからだ。わたしが彼らの自殺を止められるのは、道徳的な非難でも、何かしらの合理性でもなく、ただ、わたしにとって彼らが生きていることに価値があるから、ただそれだけのことだ。

だからわたしは、赤の他人の自殺に対して、それが尊敬する人であれば、悲しみと惜しさを感じるが、ふつう道徳的非難を行おうとは考えない。だが、近しい人に対しては過酷な生を生きて、わたしがその姿を見たいので生きろと横暴に思う。地獄を生きながらえて、わたしが見たいあなたの姿をわたしに見せ続けてくれ。苦しみ続けて、作品を生み出したり、世界にとってよいことをしてくれ。

もしあなたがわたしにとっての赤の他人なら、あなたにかけるべき言葉は見つからない。もしあなたが自殺するというなら、それは道徳的に悪でもなく、合理的でさえある。自殺は、人間の生がすべて生きるに値するなどと考えているおめでたいやつらへの最高の花向けのひとつだと思う。だが、あなたの勇気と愚かさによってあなたは生き続けて何かをすることもできるだろう。もしあなたが周囲の思惑や社会によって自殺させられるなら、あなたにとってそれほど腹立たしいことはないだろう。アドバイスがあるなら、あなたの中に何か怒りはないだろうか。これを確認してみて欲しい。もしあなたに何か怒りがあるなら、その怒りによって生きて、この世界に何らかの仕方で復讐することもできる。わたしはそれを手伝う気はまったくないが、勝手にしてみればどうだろうか。

ところで、なぜわたしはまだ自殺していないのか。その答えは単純で、わたしにはこの世界を最高度に価値ある世界にする使命とこの世界のすべてを絶滅させるという使命があるためだ。これは長くなるので割愛する。運がよければまたどこかで会いましょう。

難波優輝(現代美学・批評)

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