見出し画像

メタモルフィック倫理学とは何か:人類を倫理的に工学する

メタモルフィック倫理学とは何か

差別や不平等といかに立ち向かうのか。人文学、社会科学のみならず、あらゆる学問は直接的にせよ間接的にせよ社会の公正とよりよい未来のために活動してきたし。だが、人間の差別と不平等の解決手段には、不思議な特徴がみられる。

人間の差別と不平等の原因の代表には社会的に構成された制度や制度を支える集合的な信念やがある。こうした不公正に取り組む人文学・社会科学者たちは、制度や制度を支える集合的な信念を改訂するために様々な試みを行なっている。わたしもまた、社会存在論や社会構築主義の議論に関心をもちながら、とくに人間の感性的なふるまいの倫理をめぐって、ポルノグラフィやルッキズムの問題に取り組んでいる。

同時に、差別と不平等の源は、社会的な制度や信念たちのみならず、それらを生み出し、それらがすみかとし、それらが結託する、生得的な人間の脳機能、神経の構造、認知機能でもある

集団を一般化し、敵対的なイメージをつくりあげがちな認知的機能、身体的な美醜と倫理的なよさや信頼と連動させがちな不便な判断の傾向など、人間という動物の機能は社会的公正を阻み続けている。人間のままならなさは、心の哲学、認知科学、さらには言語哲学においても議論されている。

ならば、制度とイデオロギー批判を進める活動と同じくらい「人類の脳機能や神経系、遺伝子を操作しよう」という試みがなぜ主流にならないのか?

現在のわたしたちホモ・サピエンスのあり方はあくまで「より殖え、より残る」生存のための適応のパッチワークである。それが倫理的によいものかどうかは前もって決まってはいない。見えない手がうまくデザインしてくれたと主張することは難しい。

あらゆるひとが排除されず、正義と平等が実現する社会のためには、意図的にホモ・サピエンスの構造を改造することは倫理的によいし、いくらか、人類が目指すべき倫理的使命であるとわたしはいまのところ考えている。ここでわたしは次の学問分野の必要性を主張する:

メタモルフィック倫理学(metamorphic ethics):薬理的・外科的・遺伝子工学的手法により、ホモ・サピエンスの脳・神経・機能をより倫理的なものに改訂する手法、手法の倫理的適切さ、実装される倫理的パッケージの適切さ、そしてその効果と測定手段を考察する学問。

メタモル倫理学(以下「メタモル倫理学」はメタモルフィック倫理学を指す)は、ホモ・サピエンスを倫理的に人工的に「進化」させる。わたしたちの倫理的基盤である脳たちが倫理的でないのならば、それを変えることでわたしたちはより倫理的になれる。

これまでの倫理学の議論は威力を発揮する。わたしたちがどのような「倫理的パッケージ」を人間に実装したいかをめぐって、規範倫理学における功利主義・義務論・徳倫理といった様々な立場のどれを達成しやすくするか、どれがもっとも正義に適うのかを考察するために、これまでの倫理学は貴重な計画と図面を与えてくれるだろう。

遺伝子工学や医学も本質的に関わる。倫理的な次のホモ・サピエンスを工学するとき、どのような手法が可能なのか、どのようにすれば、差別や不平等を生むような認知機能を消去し、より倫理的な動物を制作できるのか

倫理学・哲学と遺伝子工学・生理学・心理学・医学が表面上だけではない根本的なしかたで関わる魅力的な学際的分野としてメタモル倫理学は可能だろう。

なお、メタモル倫理学にはおおきくふたつの方向がある、すなわち:

つよいメタモル倫理学:倫理的に完全な人類を設計、実装することで、この世界を倫理的ユートピアへと変容させる。
よわいメタモル倫理学:倫理的に明確に問題があるような人類の脳・認知・神経機能を最小限特定し、それらをよわめたり機能不全にすることで、この世界をすこしだけユートピアに近づける。

メタモル倫理学の論者によっては(世界にいま何人いるのかわからないが)、完全な変容を求める者もいれば、そうすることで人間性に致命的な変化が訪れるため、ほどほどの改変で満足する論者もいるだろう。前者に致命的な批判が後者であれば回避できるものもあり、メタモル倫理学にシンパシーを持っているからと言って、まったく同じつよさの改変や変化を求めているわけではないことには注意すべきだろう。(ちなみにわたしはつよいメタモル倫理学に関心がある。そのため、かなり多くの問題を抱えていることに現時点で気づいている)

とはいえ、メタモル倫理学には、すぐさま様々な批判と、工学的課題が突きつけられる。ここまで読んだひとのなかには、深刻な倫理的嫌悪を催したひともいるかもしれない。以下では、いくつかの批判と課題について現時点での応答を行うなかで、それらの嫌悪のいくつかは適切な反応であり、いくつかは早急な判断であると説得したい。

倫理的批判

パターナリズム批判:メタモル倫理学は、すでに「あるべき倫理的人間」を想定し、それを実装しようとする倫理的パターナリズムではないか。

確かに、実装される倫理が特定の集団によってのみ決定されるとすれば、それは特定のひとびとにとってのみ都合のよいディストピアをつくりだしてしまう。そのため、倫理パッケージの策定や実装の過程には透明さと適切なプロセスを担保する必要がある。

だが、わたしたちは、すでにあるべき人間像や道徳的ふるまいをめぐってつねに批判を行い、何らかの道徳的判断を正当化し、それを広めようともしている。このプロセスをより明示化し、公共的に行えるとすれば、よりよい政治的なステップのもと、適切な道徳をひとびとのあいだで対話し、構築し、そして実装可能である。

また倫理的パッケージをどの程度強固に実装するかは、わたしたちの対話のなかで決定されるべき問いだ。完全に倫理的に望ましい人間を実装するのか、とりあえずはわたしたちが見つけ出した明らかに破壊的な影響をもたらすような差別や不平等を開始させる脳機能のみを弱めるのかなどはこれからの工学的課題になるだろう。

人間性消去批判:メタモル倫理学は人間性の深刻な破壊である。わたしたちのユニークさを消し、すべてのひとを倫理的なよさの基準によって平均化する悪魔的な発想である。わたしたちの倫理的判断の源からいじくろうとする倫理的に冒涜的とも言える行為である。

既に精神障碍のひとびとも薬理的な作用によってみずからのあり方を調整しているし、発達障碍のひとびとにいたっては、適切な環境ではある種の類稀な能力として開花しうるにもかかわらず、社会的要請によって薬理的「治療」を余儀なくされている。わたしたちは特定のひとびとの福利のために既にホモ・サピエンスへの工学を行なっているし、特定のひとびとにいたってはわたしたちの社会が薬理的操作を構造的に強要している。わたしたちは「自然なホモ・サピエンス」などではもはやないだろう。

ゆえに、倫理的工学は、程度の差はあれ、わたしたちがわたしたちの福利のために行う操作と根本的に変わる実践ではない。

また、倫理的なよさの基準を平均化することが、どの程度ならば深刻な倫理的問題になるかどうかは議論の余地がある。先ほどの議論とも関わり、倫理的に完成したホモ・サピエンスをつくりだしたいのか、それとも、倫理的な問題はあれ、すこしだけましなホモ・サピエンスをつくるのかは、わたしたちの対話に委ねられている。つまり、倫理的判断のユニークさをどれくらいとるのかは確かに問題になるが、それは工学的課題としてこれから議論可能だ。

わたしたちの倫理的判断の源をいじること、より正確には不可逆的に操作することは、脳を直接いじらずとも、また薬を投与せずとも、教育における実践、倫理学が行い、半ば目指していることではないだろうか。それはこれまで言語や物語によって担われてきたが、それをより直接的に行うのは程度の問題ではないだろうか(この点については致命的な弱点がある気もするので指摘を待つ)。

優生思想批判:メタモル倫理学は、倫理的に適切な人間のみを生存させ、そうでないひとを排除しようとする優生思想と変わるところがない。

この指摘はもっとも核心的なもののひとつだ。人間を薬理的・外科的・遺伝的に操作する、という目論見じたい、程度の差はあれ、人間の倫理的多様性を失わせる。この点については、まだ考えることが多く、わたしじしんエンハンスメントの議論に触れられていないため、大きな穴であることを認める。

工学的課題

以下では前節でもいくらかふれた工学的課題に焦点を当てよう。

パッケージ問題:実装するにはどのような倫理的パッケージがただしいか?

こちらはかなりつよいメタモル倫理学の関心になる。というのも、人間の脳機能の問題点のみならず、倫理的判断の総体を実装するつもりの問いだからだ。

倫理的パッケージにあたっては、徳モデルか、義務モデルか、功利主義モデルかといった、これまでの規範的立場がモデルとして使えるだろう。たとえば、功利主義モデルの人口社会プログラムを走らせ、どのような問題が起こるか、どのていど倫理モデルをミックスするかなどの実験手法が用いられそうだ。

また、倫理的パッケージ問題は、AI倫理学に思わぬ観点からの価値を付け加える。というのも、AIへの倫理的パッケージの実装は、人間に実装する際の試金石の一つとして価値をもたらすだろう。

また、倫理的多様性のために、倫理的パッケージを固定で発言するものなのか、それとも、ある人口比で様々な倫理的パッケージが発現すべきかなど、倫理的ユートピアの設計には困難がつきまとう。

可能性問題:どうやって問題のある脳・神経の活動を阻害できるか

よわいメタモル倫理学にせよ、実現可能性は致命的である。わたしはまったく具体的な手法を思いつかない。だが、これまでこういう議論がおそらくはなされてこなかったために研究が見られないだけで、まさにメタモル倫理学を開始することによって、これから実装可能性問題を議論しはじめられるはずだ。

測定問題:倫理学的に改訂された人類と世界のよさはどうやって測るのか

倫理的よさと幸福度や福利の関係をつよくとれば、福利が上がるほど世界は倫理的によくなっているだろうが、べつの立場であれば、人類の倫理的よさを測る手段はそうした単純な指標には頼れないだろう。

おわりに

メタモル倫理学は「よりよい社会のために」という工学的な課題が「倫理的なよさとは何か」という人文学的な議論から生まれる魅力的な学問である。この学問は、もちろん、これまでの倫理学のすべてにとって代わるものではない。これまでの倫理学によって制度やイデオロギーがどのように作動しているのかを分析しつつ、さらに、生物工学的な解決法を模索できる。

おそらくメタモル倫理学は狂気の沙汰に思えるし、わたしもメタモル倫理学の実装のされ方によれば嫌な予感がするが、思考できるものはいつか誰かがやってしまう。倫理的な災害が起きる前により冷静な倫理学者やひとびとにメタモル倫理学の可能性と危険とを考察していただければさいわいだ。

難波優輝(現代美学・批評)

紹介していただいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?