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火の山二十二 水月からの手紙

 洋へ                 
                水月より

 あなたに会えなくなって、いったいどれほど時間が経過したのかしら。
 何度も何度もあなたに手紙を書こうとしたの。
 でも、私の手紙、文字にした瞬間に、風になって消えてしまうのです。
 この手紙も、果たしてあなたの元に無事に届くのかしら。

 だから、
 風の音に耳を澄ませて。
 そっとそっと耳を傾けて。

 今、海を見ています。冬の海です。
 夜の海って、怖い。
 黒い波は死者達の拡散された意識のようで、私の足下まで纏わり付いてくる。
 海鳴りかしら。
 何だか、死者達の呻き声のよう。

 私、ここがどんな地名のどんな場所なのか、全く分からないの。
 汽車に乗って、どこまでも北へ北へと旅をしていった。
 ごめんなさい、本当に驚いたでしょ?
 洋、あなたのふくれっ面が目の前に浮かんできそうよ。
 あなた、どうしたら、許してくださる?

 あなたは神さまを信じている?
 そうね、あなたは無神論者だったわね。でもね、この頃神さまを信じてみてもいいって、思い始めたの。
 神さまが本当にいるかどうかなんて、私、どうでもいい。
 人間は何にも存在しないものを零と規定し、そこから今の文明を作り上げたのでしょ。
 それなら、神さまを規定することで、今度はどんな精神文化を生み出すのか。
 ううん、私、そんなことを言いたいのではない。
 神さま、あなたがもし存在するなら、どうかもう一度あなたに会わせて下さいって。
 私はたとえ肉体の衣を脱ぎ去っても、新しい世界でもう一度あなたと巡り会いたいってね。
 あなたがどんなに姿を変えようとも、私、一目でそれを見抜いてみせる。

 ねえ、素敵でしょ?
 だから、あなたも神さまを信じることだわ。

 あなたをこんなに心配させてしまって、謝ったくらいですむことではありません。それに、もうあなたのところへは戻れないのです。
 どうか許して下さいね。
 私はたとえあなたの世界にいられなくても、いつだってあなたのそばにいます。
 風になるのです。
 風になって、あなたを守りたいのです。

 私がなぜ夜の海を見に行ったのか、あなたにはまだその理由を話していなかったかしら。
 海って、生まれて一度も見たことがなかったの。
 それなのに、私の心の中にはいつでも海がある。
 それも真っ黒な海。  

 私、確かめたかったの。
 だから、一人で海を見に行った。夜の海を見たら、きっと何かが分かると思ったの。でも、もし本当のことが分かったら、もうあなたの元には戻れないかもしれない。
 だから、怖かった。

 洋、
 あなたいつか私に話してくれたわね。
 マスターがこう言ったって。
 肉体を喪失したら、想念だけの世界になるって。

 私、洋と一つになりたかった。
 でも、どうしても駄目だった。だって、あなたの私とでは、あまりにも想念の世界が違うもの。
 洋は汚れを知らない、眩しいような、透明な世界の中にいる。だから、私が洋の世界と一つになるためには、私の中の汚れた部分を削ぎ落とさなければならない。
 それにはもう一度夜の海に身を投じて、肉体に纏わり付く一切を切り捨てなければならなかったの。

 洋、
 あなたは私のことを透明で、清らかだと言ったわね。
 透明だったのは、あなたの方なのよ。
 肉体を喪失した幽霊は、むしろ、洋の方だったのよ。

 いつかあなたに話したと思うけど、私には父がいません。子どもの頃、誰かに父のことを聞かれたら、たくさんいるのって、答えたものでした。
 大抵の人はもうそれ以上は聞こうとはしません。驚いた顔をして、それから苦笑いをするだけ。 

 母な寂しかったのです。
 だから、絶えず男を求めていた。
 私にとって、父親のイメージは決して優しく、愛情に満ちたものではなく、獣の臭いをさせた男そのものでした。 

 私は母を好きでした。母の孤独をじかに感じていたから、そんな母を憎む気持ちにはなれませんでした。どうしても許せないほどだらしなく、嫌なところもたくさんあったけど、母の悲しみは痛いほど分かったわ。
 私には頼る人は母しかいなかったのです。 
 そんな母に棄てられたら、私、どうしていいのか分からなかった。

 いつだったか、夜中に母が私の首を絞めたことがありました。でも、その時、母は泣いていた。
 私、母の悲しみが分かる気がして、首を絞められながら、泣いたわ。母が私をいらなくなったのなら、もう生きていても仕方がない。その時、本気でそう思ったの。
 だから、まったく抵抗しなかった。

 だから、母が五百円玉を握らせ、私は公園に置き去りにした時、私、母を捜さなかったの。いつまでもいつまでも母を待っていた。
 母が私を邪魔に思ったのなら、この世に生きていても仕方がないと思った。
 でも、不思議なもので、母を信じて待とうと思う一方、心のどこかでは母もう二度と戻ってこないと分かっていたわ。

 ああ、今でもあの時のことを思い出すと、胸が張り裂けそうになる。
 お母さん、私がそんなに邪魔なんだ。
 だから、もう家には戻れない。
 私、そう思ったの。だって、私が家に戻ったら、お母さん、どんなに困った顔をするだろうって。
 公園に捨てられてしまったら、もうご飯を食べることも、ジュースを飲むことも、暖かい布団で眠ることも許されない。誰も自分を愛してはくれない。
 この広い世界で、私はひとりぼっちだったわ。
 手の中の五百円玉は汗でぐっしょり湿っていた。お腹もすいていたし、喉も渇いていた。この五百円で、パンを買おうか、それともジュースを買おうか、頭の中はそんな思いが目まぐるしくよぎったのだけど、五百円玉を使ってしまったら、もうお母さんが戻ってこない気がして、私は結局ずっと五百円玉を握りしめていた。

 人の心って、不思議。
 私の心の中には、母を恋しく思い、会いたくて会いたくてどうしようもないという思いがある。
 でも、その一方では、母を憎んでいる。どんなに綺麗な言葉で繕っても、どこかで母を恨み、許せないと思う自分がいる。
 どれが本当の私か分からず、いつも困ってしまった。

 ううん、本当はそうじゃない。
 私はいつも純潔で、清純で、正しくあろうとしたわ。
 私の中の母に似た部分を毛嫌いし、徹底的にそれを押さえつけようとした。
 だから、あなたの前ではいつも清純な、美しい女でいようとした。
 でも、本当は自分の心の奥底に潜む母に似た部分を暴かれるのが怖かったのかもしれない。

 そうだわ。
 なぜ夜の海を見に行ったのかだったわね。
 真夜中の公園に、一人置き去りにされた時、ふと海が見たいと思ったの。
 母の故郷にある海、そして、一度も見たことがない海。
 お母さん、いつか私に海を見せてくれるって、約束したの。

 あの時、私、棄てられた子犬を拾った。
 真っ白な子犬。
 その子犬を追いかけ、夢中で駆け出した時、私の目の前に突然黒い海が現れた。

 公園の中の海よ。

 海を見たことのない私は、夜の池があの時海に見えたのかしら。
 次の瞬間、黒い海が私の体内に浸入し始めたの。
 その冷たさに私は驚き、すっかり怯えてしまったわ。

 だって、私が夢にまで思い描いていた海の感触とは、あまりにもかけ離れていたのですもの。

 今、日本海を前にして、はっきりと分かりました。
 私はあの時、池に落ちてしまったのです。
 真夜中、公園の中にある小さな池で、母に棄てられた女の子が池に溺れたのです。

 その瞬間、私は二人になりました。

 正確に言うと、二つに分裂したのでしょうか。
 一人の私は池の底にどこまでも深く沈んでいきました。肉体の感覚から自由になれず、苦しい苦しいと泣き叫んでいるのです。
 池の底に沈んでいった一方の私は、いつも誰かを責めてばかりいました。
 私は何一つ悪い事をしていない。それなのに、どうしてこんなに苦しいの? いったい誰が私を苦しめているのって。
 私の本当のお父さん、誰が本当のお父さんか分からないけれど、うなだれて通り過ぎるだけのお父さん、まず彼を憎悪の対象としたのです。
 それから、私を棄てたお母さん、いじめてばかりいた近所の子供たち、私はそんなことを一つ一つ数え上げては、いつまでも泣きじゃくりました。
 しまいには数えるものがなくなると、私を池に導いた子犬まで。
 おかしいでよ、子犬までせめていたのよ。

 でも、誰かを責めれば責めるほど、私の体は池の底へ底へと沈んでいきました。
 そして、何だか私でない私へと、姿を変えていったのです。
 あなたにこうして手紙を書いている私とはまったく別な私です。
 やがて、彼女との意思の疎通も途絶えてしまったの。
 もしかすると、彼女は名前を変え、姿も微妙に変化させて、今ごろどこかを彷徨っているのかもしれない。
 何だか、怖いわ。
 お腹の中ではいつも誰かを責め立て、恨んでいる女。
 あるいは、自分は棄てられたのだ。誰からも愛されていないのだという強迫観念に怯え、誰かに絶えず愛されたいと泣きじゃくる女。
 もしかすると、無意識のうちに肉体を武器にして、男を惹きつけようとする女なのかもしれない。

 私は一目見たら、その女を見分けることができるわ。だって、悲しいことに、どれも私自身に他ならないもの。
 でも、今となってはもうあなたの元へは戻れない。
 だから、とっても心配。
 私とは人格を異にしたもう一人の私が、池の底から這い上がって、私の顔であなたを自らの世界に誘い込もうとするのじゃないかって。

 もう一人の私のことを話します。
 あなたが愛して下さった私のことです。
 気がつくと、私は公園の中にいました。どうやら辺りは昼になった様子です。
 私は眩しさのあまり、目を開けていられなくて、その場にしゃがんでじっとしていました。
 私の周りの世界がどこか微妙に変化したので、それになじむまでしばらく時間を必要としたのです。
 やがて、日が暮れていき、そよ風が吹き始め、世界は静かな落ち着きを取り戻していきました。
 何だか体が軽くて、少し気持ちも緩んで、私、公園を出て、人通りの激しい道へと歩いて行ったのです。
 突然、サイレンが鳴り出し、大勢の人々が集まっては、口々に何かを叫んでいました。私は驚いて、思わず立ち尽くしました。

 どうやら、私は交通事故の現場に立ち会ったようです。
 交差点の隅に、一人の男の人が血だらけで泣いています。きっとあなたのお父様だったのですね。
 でも、私ははっきりと見てしまったのです。
 泣いても泣いても、一人の男の子が空から降ってくる。
 あの時の私は未だ幼くて、いったい何が起こったのか、皆目見当が付きませんでした。ただ怖くて怖くて、すっかり怯えてしまっていました。
 でも、今なら分かります。
 たぶん、あなたは即死だったのですね。あなたが事故に遭う前の夜、一人の女の子がすぐ近くの公園の池で溺れ死に、幽体となってあなたの事故の現場に遭遇したのです。
 私たち二人以外、誰もそのことに気づきませんでした。 

 私は一人でとぼとぼと歩いて、家に帰りました。今思えば、それも不思議なことですね。だって、私、公園に棄てられた時は、そこがどこなのか知らなかったのですもの。
 何事もないようにドアを開けーー不思議な事にお母さんも帰っていたのですーーお母さん、ただいまと言って、私は部屋の中に閉じこもってしまいました。
 何年も何年も、私、部屋の中にいた。
 ところが、私が部屋だと思っていたのは、小さな箱でした。私はその箱の中に閉じこもりながら、貪るように夢を見ました。
 それが火の山の夢。
 そして、火の山で、私たちは再び出会ったのです。
 私はそこで燃やされるけど、あなたがいつかは救って下さる、私のたった一つの希望がそれでした。
 あなたがきっと私の箱の蓋を開けて下さる、その時までじっと待っていよう、と。

 あなたとお会いできて、本当に幸せでした。
 怖いぐらいだったわ。
 でも、私の胸に宿った不安が日ごとに増大していくのは、どうしようもないことなのです。
 ふと思いついたことなのに、それが今では私をひどく苦しめるの。
 思い切って、言ってしまいます。

 あなたなんて、初めから存在しないのじゃないかしら。
 あなたは小さな箱の中で、私が何年もかかって作り出した幻想、寂しさのあまり、私が無意識に産みだした幻。
 だって、あなたはあまりにも希薄なんだもの。
 あなたは私のことを透明だと仰ったけれど、あなたはご自分のことをちっともご存じないのね。

 幽霊は、あなたの方なのよ。

 ごめんなさい、私は確かめたかったのです。
 自分自身のことも、あなたのことも。
 私の心の中に打ち寄せる波、重く淀んだ空気、海を見ることで、何かが分かると思ったのです。
 おかしなものね。
 私のこの文字、書いた先から消えていくのです。
 私も同じように風になっていくような気がします。だから、この手紙、あなたのものと届く頃には、白紙になっているのではないかしら。
 白紙の手紙を目にして、あなたはどんな表情をするのかしら?

 今となっては、あなたが存在しようがしまいが、私にとってはどちらでもいいのです。
 私はあなたの元に帰ります。
 たとえこの姿があなたに見えなくとも、私はあなたの元に帰ります。
 あなた、許して下さいますか?


 

 

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