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告白! 私はアスペルガーーーかも⑥

 一応の社会性を身につけた今、振り返ってみると私の青春時代はめちゃくちゃでした。あの頃は自分なりに考え、それなりに必死で生きてきたつもりでしたが、きっと周囲の人の目には滑稽に映ったに違いありません。そんなどうしようもない人間がいったいどうやって予備校の講師になったのか、その軌跡を辿ってみるのも、それなりに意味があると思うのです。今なら、あの頃の自分をそれなりに俯瞰してみることもできるのではないでしょうか。

 私の目の前には暗闇が広がり、私は前に足を一歩踏み出すよりも、その場で立ちすくみ、途方にくれるばかりでした。高校生でも大学生でもなく、何一つ生産するでもなく、将来の保証もないまま、今を生きるしかありませんでした。しかし、時間だけは刻一刻と過ぎていったのです。

 受験は予想通り不合格でした。しかし、これは自業自得の結果で、私にとっては納得できるものでした。また周囲の人たちも直前で文系から医学部受験に変えたのだから、二浪は仕方がないという雰囲気でした。私は同じ失敗は繰り返さないとばかり、当時京都で最もレベルが高いと言われたS予備校に通うことにしました。この予備校は成績順でクラスが決定し、しかも、席順まで成績で決まったのです。私たちは前方に座るクラスで一番の生徒の背中を見つめて、講義を受けることになりました。今までのほほんと生きていた私にとっては、この環境は望ましいものだったのかもしれません。試験は毎月のように実施され、その度に席順が入れ変わります。とにかく机が狭く、テキストもそれに合わせて小さめで、ぎゅうぎゅう詰めだったので、受講生のすべてがライバルといった具合でした。

 正直に言って、印象に残った講義は一つもなかったのですが、私たちは抜群の合格実績を信じて、切磋琢磨するしかなかったのです。優秀な受験生を集めて、徹底的に競わせるという環境が功を奏したのか、私の成績はみるみる上がって、夏休みを迎える頃、選抜の一番上のクラスにまで昇格するようになりました。そして、模擬試験ではついに国立医学部の合格権に入ったのです。ところが、このことがまた私の人生を狂わせることになりました。

 今まで、医学部とは私にとって偏差値でしかなかったのです。それが万が一にも合格して、私が医者になるのかもしれないと思った時、医学部はまさに現実そのものとなりました。私は医学部に入学した後の自分の姿や、医者になった自分を想像して、背筋が寒くなるのを感じました。

 そして、私は医者だけにはなりたくないと、真剣に考えた始めたのです。

 実は、私は肉体そのものに根源的な恐怖心を抱いていました。どうして今までそのことに思い至らなかったのか、そもそも血を見るのが病的に怖かったのです。だから、その時まで自分の血液型も知りませんでした。予防注射の日は学校を休んだものでした。医学部に入学すると解剖があると聞かされて、夜も眠れない日が続きました。

 何よりも恐ろしいのが、あの注射です。第一、皮膚の上からどうして血管の位置が分かるのでしょうか。もちろん皮膚の表面から血管が浮き出ているのですが、私が怖いのはそういったことではなく、たとえば血管の太さに関してのことです。注射を打った時、どうして針が血管を突き抜けていないと確信が持てるのか。そうとも知らず、注射をしたなら、あの注射液は体のどこを通って、どこに消えていくのか、それを考えるだけで私が気が遠くなるのを感じたのです。

 そこで、私は毎日のようにヤクザ映画を見ることにしました。人が切られて血が吹き出る場面を、目を逸らさないように懸命に凝視しました。でも、やはり無駄な努力でした。血を見るたびに気分が悪くなったし、そういった場面を凝視すること自体が苦しくて仕方がなかったのです。私は絶望しました。

 そして、医者だけにはなりたくないと思ったのです。

 しかし、無医村に行って、困った人たちを助けたいんだと力説し、仕送りをしてもらっていた手前、なかなか両親にそのことを言い出せません。そこで、医学部受験を標榜しながら、密かに第三の道を探り出しました。そして、暗くて長い道の果てに、ようやく微かながら光が差し込んでいるのを見つけました。

 私は歌手になろうと決心したのです。 

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