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KOUのプロレス史研究 完全版② ドン菅井

約2ヶ月前の1月5日に、ドン菅井というレスラーについての記事を書いたかと思います。
もし、ご覧になられていない方がいましたら、下のURLからどうぞ。

それから約2ヶ月たって、色々あり、追調査をすることで、ドン菅井についての新たな情報もいくつか見つかりました。なので、新情報を皆さんと共有したいと考え、この記事を書いております。
記事の題名には完全版と書いておりますが、手代木禎二(プロフェッサー・ヘリー)の記事同様、現時点での完全版であると、最初にお断りしておきます。
また、調査の過程で新たな情報が見つかれば、この記事に補足していきます。
あと、この記事はかなり長いです笑。

1.G SPIRITS(Gスピリッツ)について

上で前回のドン菅井についての記事を紹介しましたが、その記事を書いたのは約2ヶ月前です。
書いてから約2ヶ月の期間で、新たなG SPIRITS(Gスピリッツ)を購入しました。
それが、vol.54vol.56です!
どちらもバックナンバーは無かったので、  Amazon(vol.54)とヤフオク(vol.56)で中古で購入しました。
どちらも、そこまで値段が高くなかったのでよかったです👍
到着したので早速読んでみました。
すると、ドン菅井(マツダ・マツラ)についての記述がありました!
ドン菅井の情報があると知らないで購入したので、たまたまです笑。
まぁ、前置きはここまでにしておいて、内容について見てみます。

vol.54には…

1935年8月、メキシコのEMLL(現CMLL)でマツダ・マツラを名乗って活躍した後、ハワイに初登場したのはオレゴン出身のドン菅井である。13日のホノルルデビュー戦では、沖識名を差し置いてメインに登場。トップを張っていたジョージ・ワイルドキャット・ピートを破った。

G SPIRITS(Gスピリッツ)vol.54 P.56より

との記述が!
この記事を書いたのは、私の尊敬するプロレス史研究家である、小泉悦次さんです。前回のドン菅井の記事には、同じく小泉さんが執筆された、G SPIRITS(Gスピリッツ)vol.67の沖識名についての記事からの情報も含まれています。気になった方は是非ご覧になって下さい!
やはり、小泉さんの記事は、緻密です。
私もいつかプロレス史についての記事を書きたいと思っているので、参考にさせて頂きます。

あと、先ほども述べましたが、vol.56にもドン菅井(マツダ・マツラ)についての記事がありましたので、ご紹介します!

vol.56には…(長いので新情報を一部引用します)

ルチャ・リブレの黎明期において最も優れた日本人選手と言われているのが『マツダ・マツラ』である。彼は先の柔道家たちと違って本物のプロレスラーであり、1935年1月31日、アレナ・ナショナルでビリー・ホールズを破ってメキシコデビューしている。     (中略) 
当初、マツダ・マツラはマティ・マツダではないかという説も流れた。メキシコの雑誌では、長らくマティ・マツダをマツダ・マツラと混同して紹介していたからだ。  (中略)
彼はキャリアの大半を本名で戦っていたが、メキシコで『マツダ・マツラ』と名乗って以降、アメリカやカナダで『ドン・スガイ・マツラ』、『マティ・マツラ』として戦うこともあったようだ。
        (中略)
メキシコで、彼は『パターダス・ボラドーレスの創始者』と言われている。つまり、フライング・ドロップキックを最初にやった男という意味であろう。当時の紙面には、『マツラの鮮やかな飛び蹴りに人々はド肝を抜かれた』という記述が残っている。

G SPIRITS(Gスピリッツ)vol.56 P.75,76より

かなり細かく記述されていますね!
この記事を書かれたのは、元週刊ゴング編集長として知られる、清水勉(ドクトル・ルチャ)さんです。
名前の通り、清水さんはルチャ・リブレにとてもお詳しいです。流石の調査力です。
ちなみに、vol.56には、他にもドン菅井(マツダ・マツラ)についての記述があります。
それが、EMLL(現CMLL)2代目のサルバドール・ルテロ・カモウ代表(愛称はチャボ)の菅井についての発言です。

まだ私は子供でしたが、マツダ・マツラを観た記憶が薄っすらあります。彼が私の見た最初のハポネスでした。とても素早い選手でしたね

G SPIRITS(Gスピリッツ)vol.56 P,76の
チャボ氏の発言より

興味深いですね🤔
私が調べた時にメキシコでのドン菅井(マツダ・マツラ)の活躍はあまり紹介されていませんでした。メキシコでの情報もないか、また調べてみます!
また、手代木と同様、読者の皆さんからの情報を募集しております。この記事のコメント欄か、X(旧Twitter)のDM・コメントにてお願いします。
あと、前回の記事で紹介していませんでしたが、菅井のデビュー日は、1933年10月14日(後述しますが1月説もあり)らしいです。奇しくも、この日から19年後の1952年10月14日に菅井は事故のため亡くなられています。何かの運命があったのかも…?

2.ビッグ・シティという映画について

前回の記事に上の写真を載せています。
この中に、ドン菅井(マツダ・マツラ)が、1937年にビッグ・シティという映画に出演したことを書いています。主演は、ルイス・レイナーとスペンサー・トレイシーという俳優らしいです。この映画については、菅井を調べたときに調べてみましたが、発見することができず💦

今回色々あって、菅井について追調査をする過程で、この映画を見つけたいと考えました。
私が前回調べても情報が無かったので、今回は知恵袋を利用することにしました。
何故、知恵袋なのか?という方もいるかと思いますが、私が他の戦前レスラーについて調べている時も、知恵袋を活用し、有力な情報を集めることができたからです。それはさておき…

すぐに、知恵袋に質問してみました。
プロレスカテゴリーが第一カテゴリーだと、回答がつかないと考え、外国映画カテゴリーを第一カテゴリーにしてみました。
すると、1時間20分ぐらいで回答が!
回答者の方曰く、下のサイトでビッグ・シティをフルで見ることができるとのこと。

早速見てみました。
すると、菅井らしき人物がいました!
時間は1時間8分頃です。下の写真の人物です。

ビッグ・シティ 1:08:08頃

中央奥にいる人物が、菅井だと思われます。
ですが、その隣に同じく日本人(日系人)らしい人物がいます…😅

誰でしょうか?

私なりに調べていると、回答者さんが情報を教えて下さいました。
回答者さん曰く、その人物は、Taski Hagio(萩尾タシ?)という方らしいとのこと。
菅井は、クレジット(出演者などの作品に関わった人の名前、作中で使用した音楽などについて字幕で表記すること)されていないようですが、この萩尾はクレジットされています。
それが下の写真です。

ビッグ・シティのクレジットより

この萩尾という人物は、熊本出身ようで、日系人ではなく、純日本人の感じですね。
だけど、名前のTaskiというのが引っかかります。そんな名前あるのかと。
少し考えていると、また回答者さんからのコメントが!
回答者曰く、

Taskiではなく、Tasukeが実際の名前のようで、熊本出身の柔道家として、Tasuke Hagio の名前が出てくる

とのこと。
早速私も、Tasuke Hagioで調べてみました。
すると、この本がAmazonで出てきました。
下の本です。

この本は、大東流合気柔術の佐藤十心斎(?)という人物が執筆、Tasuke Hagio(萩尾太助)が訳をし、1952年に発行した本を、2013年に復刻して再発行したもののようです。
大東流合気柔術と言えば、武田惣角が有名ですが、この佐藤十心斎という人物が、武田惣角と関係しているかは不明です。

そして、このTasuke Hagio(萩尾太助)について、興味深い記事を回答者さんが教えて下さいました。それが下の新聞です。

どうやら、戦時中に行方不明になった同姓同名の萩尾太助と間違われたことがあるようです。
記事に出てくる萩尾が、私が調べている萩尾と、出身地・生まれた年・柔道家の三つとも同じなので、本人で確定だろうとのこと。

この記事は面白いですね…🤔
何故間違えられたのか?

まぁ、この萩尾という人物は少し置いておきます。菅井は、先ほど写真を載せたシーン以外にも出演しているであろうシーンがあります。
それが下の写真です。

二つの写真とも綺麗な柔道技を披露しています。
ですが、先ほど紹介した萩尾と菅井が似ているため、判断が難しいです…😓
前回の記事で紹介しましたが、菅井も柔道の経験者です。

ビッグ・シティ 1:15:57頃

髪型や服装から見て、萩尾なのかなと思いますが、確定しないです💦
どちらの人物も柔道経験者(柔道家)である上、顔や服装も似ているので何とも言えない感じですね…

そう言えば、この映画には、他にも多くのレスラーが出演しているようです。私は日本・日本人(日系人)のプロレスを主に調べているので、範囲外(笑)ですが、マン・マウンテン・ディーンだけは見つけることができました。
ディーンと言えば、人間山脈(元祖)と呼ばれ、キモン工藤との試合が日本では有名ですかね🤔
詳しくは割愛しますので、気になった方は、下のサイトか、田鶴浜弘氏の著書をご購入下さい。
ちなみに、菅井と工藤は、1939年8月28日にミシガン州のデトロイトでタッグを組み、チン・リー、ウォルター・アチウ組と対戦し、勝利しています。

キモン工藤

このディーンが、菅井や萩尾たちと同じシーンに出演しています。それが下の二つのシーンです。

ビッグ・シティ 1:08:00頃
ビッグシティ 1:15:33頃

キモン工藤との試合(結果は工藤の1勝4敗)が、1935年〜1936年なので、この頃は全盛期と考えていいのかなと思います。
私の中でのディーンの印象と、この映画でのディーンの印象が違ったので、初めて見た時は驚きました!
意外にも優しい感じがしました💦

以上が、私がビッグ・シティについて調べて得た情報です!
他にも、この映画での菅井についての情報がある可能性もあるので、見つけた方は教えて下さい!

3. ジョセフ・スヴィンス氏からの情報

ジョセフ・スヴィンス(Joseph Svinth)氏については、前回の記事で紹介しているので、省略致します。もし、前回の記事をご覧になられていない方は、下のURLからどうぞ!

私は、ジョセフ氏とある方を通じて、出会いました。その方は、私より10年以上前にドン菅井(マツダ・マツラ)について調べておられ、私の知らない情報もお持ちでした。
その方が、ジョセフ氏がまとめられた、菅井についての文章を教えて下さいました。
それが下記の写真(7枚)です。

写真①
写真②
写真③
写真④
写真⑤
写真⑥
写真⑦

ジョセフ氏の調査がとてもくわしいですね!
写真1枚ずつ内容を見てみます!


写真①

・ドン菅井はポートランド(オレゴン州)生ま
 れ。両親は菅井久次郎とツル。菅井たちは、 
 1915年頃オレゴン州キーザー近郊に定住。
・菅井久次郎ははセロリ農家だった。菅井家の子 
 どもたちは、キーザーとセーラムの公立学校に 
 通った。
・ドンは1931年と1932年に、セーラム高校のフ 
 ットボール・チームでハーフバックとしてプレ
 ーし、同校で最も華やかな選手だった。
・1932年4月、同校初のレスリング代表チームの
 一員として、158ポンド級で州2位となった。
 弟のジョージ、ジョン、アートもスター選手だ
 った。
・大学フットボールの奨学金のオファーもあった
 が、ドンはプロレスラーになることを決意。
・彼の最初の試合は1933年1月にポートランド 
 で行われた。15分32秒のレスリングの末、
 ジェス・マッキャンをボストンクラブで倒して 
 勝利。その1ヵ月後、菅井はタコマで相撲の
 地方大会で好成績を収めた。(北米では相撲で
 生計を立てている者はいなかったが、相撲も
 プロスポーツであり、優勝者には貴重な賞品と
 賞金が贈られた)

デビュー日が、前述した、G SPIRITS(Gスピリッツ)と違いますね…😓
ドン菅井は、日系アメリカ人と聞いていましたが、これだと純粋な日系二世ですね…


写真②

・1934年3月19日、菅井はモンタナ州ヘレナで
 レスリングをしていた。対戦相手はエディ・
 ヒーバート。
・1934年11月、菅井はオレゴン州ユージーンで
 19歳のピル・チンと結婚。
 それからロサンゼルスに行き、ニューヨークの
 ブルドッグ・ジャクソンとレスリングをした。
 その後、テキサスとニューメキシコに行き、
 いつもはマツダ・マツウラという名前でプロレ
 スをしていた。
・1935年8月1日にサンフランシスコに戻り、
 ジェリー・マーカスと対戦して引き分けた。
 その後、菅井は妻とともにSSマロロ号でホノ
 ルルに向かい、1935年8月8日に到着した。
・1935年8月13日、菅井は準決勝でワイルド
 キャット・ピートと対戦。1935年10月、
 菅井はセーラムに戻り、ポートランドのジャッ
 ク・リプスコムを3回中2回フォール勝ちし
 た。その後、サンフランシスコで試合を重ね
 た。
・菅井がマツディ・ハマナカとしてプロレスをし
 ていたなら、彼は1936年6月2日にベンチュラ
 郡でクレム・サボルディを破っている。
 1936年6月3日付 Ventura County Star紙。
 ただし、ハマナカは工藤界門の相撲仲間の名前
 なので、おそらく後者であろう。

最後のHamanaka(ハマナカ)が気になります。何故かと言うと、アメリカで活躍した戦前レスラーの中に、ハマナカ(濱中)というレスラーがいた可能性があるからです。
ほとんど情報がないのですが、国会図書館のデジタルコレクションの中には、(知っている限りで)濱中について記述された本が1つあります。
それが、下の在米日本人史です。


頁は338です。
この本以外情報がないので、またジョセフ氏に質問してみたいと思います。


写真③

・1936年10月、菅井はオレゴンに戻った。
 ジャック・リプスコムがよく対戦相手だった。
 菅井はこの試合、頼みの綱のデスロックとサー 
 フボードを決めてフォール勝ちを収めた。
 両者は激しい叩き合いで互いを侮辱し合ってい
 たという。
・1937年7月24日、サンフランシスコのエクス
 ポジション・オーディトリアムで行われた
 ミドル級戦で、菅井はユーコン・ジェイクに
 敗れた。1937年8月17日、ポートランドで
 菅井は樋上蔦雄(ラバーメン樋上)と組み、
 ノエル・フランクリンとセーラ・モランを
 タッグ・レスリングで下した。
・1937年10月12日、ポートランドで菅井と
 アーニー・ピルソはノエル・フランクリンと
 エル・ジピロテと組み、再び敗れた。
 1938年と1939年の間、菅井はテキサスにいた
 ことは明らかで、シアトルの新聞は菅井のこと
 を取り上げなかった。
・1940年1月下旬、菅井はハリウッドでの試合
 にブッキングされた。ロサンゼルスに戻るのは
 数年ぶりだった。1940年2月19日 "スガイ・
 マツダ "はハリウッドでブラック・ドラゴンを
 倒した。2月26日、彼はおそらく "マティ・マ
 ツダ"か "伊藤太郎 "のどちらかであろう。

前回の記事で、樋上蔦雄(ラバーメン樋上)と組んだのは、1937年の後半としていましたが、8月のようです。最後の一文はよく分からないです💦
マティ・マツダは1929年に亡くなられてますので。あと、伊藤太郎は、後のグレート東郷ですね。


写真④

・1940年3月4日、ロサンゼルスでの試合でユー
 コン・ジェイク・ジャクソンが菅井を下した。
 菅井は1940年3月にも、カリフォルニア州
 ワトソンビルでレスリングをしている。
 そこではライトヘビー級選手と対戦し、押しも
 押されぬ選手と評価された。
 残念なことに、菅井は体重が155ポンドほどし
 かなかったため、キモン工藤、沖識名、
 キラー・シクマのようなヘビー級の選手のよう
 に地域的、全国的な名声を得ることはなかっ
 た。
・第二次世界大戦が勃発すると、菅井はオレゴン
 に戻った。1942年4月、家族とともにノース・
 ポートランド集合地区への出頭を命じられた。
 数年後、フッドリバーの二世、ヤスイ・ミノル
 はこう回想した:
 ノース・ポートランド・アセンブリー・センタ
 ーで、私は......ベニー・ヒガシとドン菅井の家
 族を覚えています。二人とも地元の中国系アメ
 リカ人の女性と結婚し、二人の子供がいまし
 た。妻のラルン・ヒガシとピル菅井は、
 私たちと一緒にキャンプに耐えました。
 彼女たちは免除されたはずだが、子供たちは
 日本人とのハーフであったため、免除されなか
 った。子供たちはそれぞれ2歳と4歳だった。

菅井たちも、第二次世界大戦によって、生活が一変しています。
同じ戦前レスラーでもある、沖識名も、この戦争でコロラド州デンバーにあった日系人の収容所に入れられています。
この時代にアメリカにいた日本人(日系人)は、大変な思いをした思います…


写真⑤

・ノースポートランドとミニドカの両方で、菅井
 はレスリングを教えたり、野球やギターをした
 り、タレントショーに参加したりして楽しん
 だ。しかし、1943年、戦争転住局は、何千人
 もの二世を転住センターから解放し、アメリカ
 全土で農作物を収穫できるようにすることを
 決定した。菅井が行った甜菜畑は、オレゴン州
 オンタリオ近郊にあった。
・戦前、オレゴン州マルヒア郡には約140人の日
 系人が住んでおり、近くのボイシ渓谷にはさら
 に数百人が住んでいた。内陸に住んでいたた
 め、これらの人々は1942年4月の排斥命令の
 直接的な影響を受けなかった。さらに、
 オンタリオ市の政府と人々は、戦争中も日系
 アメリカ人に対して比較的友好的であり続け
 た。欧米の他の地域ではこのようなことはなか
 ったため、戦時中、数千人の日系人がオンタリ
 オに集まり、戦争が終わっても千人以上が
 オンタリオに残った。菅井は、戦後オンタリオ
 に残った日系人の一人である。
・1943年、菅井は日系人向けの小さなレストラ
 ンを開いた。このビジネスは繁盛し、1947年
 6月、菅井はさまざまな親戚とともに、
 イーストサイド・カフェとして知られる大きな
 レストラン兼ラウンジをオープンした。
 (イースト・サイド・カフェという名前は、線
 路の東側、町の日本人居住区にあった。)

菅井が家族で飲食店を経営していたのは知っていましたが、結構大きいものだったのは驚きです。この飲食店については、また詳しく紹介します。


写真⑥

・同じ頃、菅井はプロとしてレスリングを再開し
 た。(私が知る限り、菅井の戦後最初のプロレ
 スの試合は1947年8月25日にポートランドで
 行われた)おそらく、その動機は新しい
 レストランのローンを支払うために必要な追加
 収入だったのだろう。シアトルやホノルルで
 プロレスをしていたとき、菅井はエルパソのス
 ギー・ハヤマカとして知られるヒールだった。
・1948年10月、菅井はモンタナ州ヘレナでプロ
 レスをした。対戦相手は以下の通り。
 ヒルビリー・バディ・ノックス
・1949年、菅井はオンタリオのゲイオンタリオ
 のゲイ・ウェイ・ダンスホールでプロレス・
 ショーを始めた。地域プロモーターのテック
 ス・ヘイガーはすぐに菅井のプロモート権を
 買い取ったが、菅井はレスラーとして活動を続
 けた。例えば、1950年10月30日(月)にシ
 アトルで行われたジャケット・レスリング・
 マッチでは、日系カナダ人のトーア・ヤマトと
 対戦した。そして、年々体重を増した彼は
 ライトヘビー級に転向し、対戦相手には元NFL
 フットボール選手で後にワシントン州ピアース
 郡保安官となるフランク・ストジャックなど、
 地元の人気選手も含まれていた。

トーア・ヤマトというと、花子さんにピストルを打たれて死亡するという壮絶な最後を迎えた、謎の日系レスラーですね。
私の尊敬する、田鶴浜弘氏の著書、『プロレス・ニッポン世界をゆく』には、このトーア・ヤマトについてコメントをするキンジ渋谷の発言が記載されています。

花子はー生命かけて惚れていたのよ…
女のジェラシー一番こわいね

キンジ渋谷の発言より

やはり謎が多いですね…


写真⑦

・いつ?
 エリザベス・コンドンというアイダホの女性
 が、菅井をオレゴンに連れてきて売春婦として
 働かせたとして告訴した。これはマン法違反で
 あり、その後の法廷闘争は菅井のほぼ1年の
 時間を費やした。1950年9月、アイダホ州の
 陪審はわずか20分の審議で菅井を無罪とし
 た。菅井の名誉は守られ、プロレスラーとして
 の活動を再開した。
・1951年3月24日、菅井はアルバータ州レスブ
 リッジでレスリングをしていた。菅井は柔道で
 黒帯を巻いていると宣伝していたが、これは
 プロレスの誇大広告に過ぎなかった。
 この時の菅井の体重は227ポンドだったと言わ
 れている。対戦相手はフランク・ハーリー。
・1952年10月14日火曜日の朝、39歳の菅井は
 ボイシでのレスリングの試合から車で帰宅中に
 居眠りをしてしまった。
 シートベルトはまだ一般的ではなく、彼は車の
 フロントガラスを突き破った。
 遺族は妻と2人の子供、5人の兄弟、2人の姉
 妹。マウンテン・ステーツ・レスリング・
 サーキットでの彼の後任は、後に映画『ゴール
 ドフィンガー』のオッドジョブ役で有名になっ
 たハワイ出身の重量挙げ選手、ハロルド坂田だ
 った。

菅井は、訴えられていたんですね…
亡くなる時も、壮絶でしたが、晩年は色々大変だったようですね。
227ポンドということは、約103kg!
通常時(最活躍期か?)の菅井の体重が、186ポンド(約84 kg)なので、約20kgの増量です。
何故、増量したのか気になります🤔


ジョセフ氏のまとめられた文章は以上です!
私の知らない色々な情報が見つかり、とても参考になりました。
あと、他にも、ジョセフ氏繋がりの菅井についての情報があるので、また後日紹介します!

4.最後に

以上が現時点での、ドン菅井(マツダ・マツラ)についての情報です!(一応、他にもありますが、これ以上長くできないのでまた後日です…)
また、邦字新聞デジタルコレクションには、色々情報がありますが、英文で、読むのに時間がかかるので、紹介は割愛します。すみません🙇
前回の手代木禎二(プロフェッサー・ヘリー)の記事も、4500字超えだったのですが、今回の記事は、9200字超えと約2倍です…😓
皆さんも私も全部読むのは無理だと思います💦
まぁ、一部でも読んで下さりありがとうございました。この続きの記事があるので、また投稿すると思います。
では、また次の記事で。

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