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フランス生活いろいろ その3 : 長男とイスラム教

先日トイレ掃除をしていたら長男がやってきて、「ママ、話があるんだ。ボク、ラマダンをしたい。イスラム教徒になるんだ。」と言った。元来考え方が昭和のおやじ的に古風だったり、数日前から枕元にコーランが置かれていたりと、そうした傾向は見られたのでさほど驚きはしなかった。「あなたがそうしたいなら構わないけれど、一般的なイスラム家庭のようにラマダン中に盛大な夕食を用意することはできないわよ。」と答えておいた。
両親がイスラム教徒でない一般的な家庭で、子どもがイスラム教徒になりたいと言い出した時、それを手放しで喜べる親はこの現代フランス社会には恐らくいない。度重なる過激派のテロにより、イスラム教徒は非常に肩身の狭い思いをしている。イスラム教徒と過激派はまったく別のものであるにもかかわらず、大半の白人フランスネイティブはこの二つを混同している。彼らは表現の自由を声高に訴えはするが、信仰の自由には不寛容だ。公立の学校で宗教的なシンボルを身につけることは禁じられている。髪の毛を覆うイスラムのスカーフはアウトだが、キリスト教のシンボルである十字架のペンダントヘッドはセーフというのも矛盾している。でもそれがフランス社会でもある。
うちの子どもたちは幼稚園からカトリックの学校に通い、そこでキリスト教のことは学んでいる。これは私が望んだことだ。幼い頃の長男は気が弱かったため、少人数できめの細かな教育を実践する私立の学校を選んだのだ。
私の祖母は仏教徒であったため、仏教的な考え方を私自身は受け継いでいる。元夫の両親は敬虔な信者で、夫にも厳格なカトリック教育を受けさせた。その反動か、本人は神を信じない。子どもたちに洗礼を受けさせないということは二人で決めた。表向きは「子どもたちが自分で信仰を選択できるように」だったが、自分たちが信じていないものを子どもに勧めるわけがないというのが本音。
双方の両親のために、我々の結婚式は市役所の後に教会でも行われた。洗礼を受けていない私はキリスト教のことを学ばなければならず、式前に何度も教会へ足を運び、神父様と話をした。同じキリスト教なのにカトリックとプロテスタントで何故戦争をするのか?という問いに神父様は答えられなかったし、式の間ビデオを撮ってくれることになっていた女友達を神父様に紹介した時は、彼女の魅力に完全に脳殺されていた。その後煩悩を追い払うためにひたすら神に祈ったのだろうと思うと、結局この宗教って矛盾してるよなという結論しか導き出せなかった。
イスラム教のことはよく知らないが、少なくともアラブ人たちはアジア人にやさしい。この国ではお互いマイノリティ、大変だけど頑張ろうなという連帯感がある。だから私にはどの宗教がいいとか悪いとか断言できない。息子がそうしたいというなら、是非やってみるべきだと思う。ただ、彼の父親は白人フランスネイティブ。前述のような偏見をもっているので、説得するのは容易ではない。信仰は自由だが、宗教は少なからず日常生活に影響を与える。特に食生活に変化をもたらす。もう二度ととんかつを食卓に出せないのかと思うと、結構しんどい。問題は彼と我々の食生活をどうオーガナイズするかということだろう。
今年のハマダンまであと数日。それまでにある程度のルールを決めなければならない。まったく子どもというのは、次から次へと頭の痛いことを持って帰ってくる。相変わらず前途多難だ。

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