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20世紀の忘れ物|『奇魂・碧魂』小田原漂情



 読者はやがて気づくだろう。漂情の歌の調べが、荒ぶる自身の魂を、そしてさらには、破壊されゆく自然や、この歌集に登場する多くの死者たちを慰めてやまないということを。(小塩卓哉)

『奇魂・碧魂』帯文

学習塾経営歌人

 某市の古本屋で見かけた見慣れぬ名前の歌人のことを、何も知らなかった。山と積まれた古本の束を少しずつ崩しながら、あれも違うこれも違うと読み進めていき、『たえぬおもひに』に行き着いたとき、これだと思った。ちょうど同じ作者の歌集が近くにあったため、それと一緒に購入したのが、掲出の『奇魂・碧魂』だった。
 一読して、作者について調べてみると、どうやら東京で学習塾を経営しながら創作を行っているようで、冒頭で挙げた埋め込みリンクが学習塾のサイトとなっているのもそのためだ。教育理念は音韻を重視しており、それが創作活動においても重きを置かれていることが伺える。過去、Youtubeで朗読配信なども行っているようで、これは前回取り上げた川野芽生のロリィタ短歌朗読ライブとも繋がる話で、面白く感じた。

 ちなみに話は逸れるが、小田原(というより、小田原の妻で歌人の石井綾乃が主体なのかもしれないが)は「美し言の葉」という文学サロンも主宰し、定期的に歌会なども行っているようである。そのサイトが下記の埋め込みリンクになるが、これがまた手作り感のあるものとなっていて、味わい深い。

 閑話休題、まずは『たえぬおもひに』からいくつかの歌を引きたい。

ここにてぞひとを待ちたる過ぎし日のおもゐのゆゑに我は老いたり
酔ふかぎりゆめ消え果てず酒なくば我にはあらずいかにとやせむ

『たえぬおもひに』から「たえぬおもひに」

いづくにか夜汽車に揺れてかへりゆかむ君がこころか歌のもとにか
わすられぬひとりの君が呼ぶときにわが生命の暗さきはまる

前出書から「古き写真」

わすれ得ぬ墓標のごときこの駅がただ親しみとかはりたる朝

前出書から「恋を呼ぶ歌」 

 追憶、酩酊、旅愁、傷心、小田原の歌にはそういったものが溢れている。言ってしまえばこの「生命の暗さ」こそが小田原の歌を輝かせている一つの要素と言ってよい。『奇魂・碧魂』も、多分にその要素が盛り込まれていたが、その方法には大きな違いがあった。

殉教する言葉

 小塩の帯文にもあるが、小田原の作には鎮魂といった意味合いが多く含まれている。それはとりも直さず昔を懐かしむことであるし、本作に時代がかった固有名詞が散見されることにも現れている(平野愛子、中田厚仁、藤山一郎、矢吹丈、クイーン・メリー…etc)。言葉の中には長く人の心に残るものもあれば、早くに古びるものもある。以下のような歌がある。

マーフィーの法則による身のめぐり酒をんな短歌会社また結社

「奇魂・Ⅰ」

たとへどれほど深くつめたく暗くともわたらうよ恋のルビコン河を

「奇魂・Ⅳ」

 いずれも時代がかった言葉が使われているが、特に後者は阿久悠や康珍化の歌詞のような風情があって、今の価値観からするとギョッとしてしまうような蘞味がある。20世紀に著された書物であることを考えれば仕方ない面もあるものの、これらの言葉が、時の試練に堪えうるものではないことを、言葉の第一人者であった小田原が見通せないはずがない。
 ここにはおそらく、あえて古びていくものを意図的に露出させて読者に提示しようという、作者の思惑がある。人間ははっきりとした変化には聡く気づくことができるが、緩やかに消滅していくものについてはとんと弱いものだ。そんな認識の脆弱性を鋭く刺激してくるのが、この2首のように思う。
 したがって、これらの歌は、ちょっと殉教的なところがあって、それらの美しさというよりも残酷さで、読者に思考を促すものとなっている。目の前で無惨に刺し殺されたものを目の当たりにして、私達が現に使っている言葉が、どのようにして古びていくのかという思考にいざなう。

20世紀的な、余りに20世紀的な

かくとだに見えぬ己れを欲ることの儚さよもう世紀も沈む

「奇魂・Ⅴ」

 当時の時代背景もあったろうが、小田原にとって世紀とは「沈む」ようなものだった。本歌集に歌われる風物も含めて、様々に失われていくものもあるだろうが、中でも小田原にとって耐え難かったのは言葉が失われることだったように思う。そのような古びる言葉への感覚がどのように育まれてきたのか。

忘却を殊に得意とする民の奇形とれてわれのゆく道

「奇魂・Ⅵ」

罪をかさねて生きながらふる身にあればせめて記憶は保ちてゐなむ

「一声の」

春の野にひばりは舞ひてわがなづき徐々にくづるる腐爛のけはひ

「眩暈コンチェルト」

 小田原の歌には、忘却に抗うような歌がいくつもある。それは、妻・石井綾乃のブログで触れられている反戦意識と同根のものであろう。失われていく言葉と、物事を忘れてしまう人間の限界を踏まえ、二度の世界大戦を経た20世紀を反省的に振り返る中で、自然と発せられた言葉のように思う。


 金川宏『揺れる水のカノン』回でも触れたが、失ってしまったもの、殊に記憶の中に消えてしまったものを追い求めるところに、人間のしなやかな美しさが現れる。金川が「きみ」に向かって手を伸ばすとのと同様に、小田原も、特定の見知った対象を歌うものも中にはあるが、より時代と繋がっているものを詠む傾向にあるように思う。

古びることを許されないもの

 古びる20世紀的固有名詞を出しつつ、何もかもを忘れてしまう人間の業の深さを歌った作品で、本歌集を象徴する印象深いものがある。

拒食にて死したるカレンの声を聞く冬ちかき街でけふ日に三度

「奇魂・Ⅱ」

 「カレン」とは、言わずと知れたアメリカのポップ・ミュージック・グループ「カーペンターズ」のボーカル、「カレン・カーペンター」のことだ。彼女らは敏腕マネージャーのもと即座にスターダムを駆け上がり売れっ子となったが、メディアへの露出が多い都合からかカレンは過剰なダイエットを求められ、拒食症となった。32歳の冬、拒食と過労がたたって心不全で亡くなった。
 彼女らの歌はまだまだ根強い人気を誇っており、街頭でもテレビやラジオなどのメディアでも耳にすることが多い。そしてその多くは、何か晴れやかな、めでたいシーンで使われている。掲出歌でも、クリスマスを目前に控えた街の雑踏が聞こえてくるようである。
 所属タレントのマネジメントや、ダイエットの弊害など、現在までに確立されてきた知見がない時代の悲劇である。小田原は、果たしてカレンの一生が祝福されるべきものであっただろうか、そのような死を彼女にもたらしたものは何だったのか、それを忘れて浮かれているお前らは一体何なんだ、と問いかけてくるようだ。
 古びていくものと対比させられるものとして、決して古びない言葉というものがある。そしてそれは、人びとの心に強く残り、語り継がれるものとしてさも美談のように語られることもあるが、カレンの場合も同様だ。その苦痛に満ちた陰影の部分を切り落として、輝かしい部分を礼賛する。そのグロテスクさが、本作にはよく現れている。
 良くも悪くも20世紀的な悲喜劇のコラージュとして、本歌集は編まれたのかもしれない。それはこの歌集に刻まれたものたちへのひとつの鎮魂のあり方なのだろう。

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