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大人の「現代文」30……『舞姫』 エリスの妊娠

なぜ不安?


 しかしこの安定、またしても、暗転してしまいます。暗転?……と言っていいんでしょうねえ。人によってはそうは考えない人もいるでしょうが、少なくとも豊太郞にとっては暗転でした。それは何か?

 エリスの妊娠です。

 え?なんで暗転?おめでたいじゃないですか、というのは現代風の考えで、豊太郞にとっては喜ばしいことではなかったのです。なぜでしょうか。単純なことです。エリスは働けない、生活がまた苦しくなる。彼の脳裏をよぎったものはまた、「生活の不安」でした。というのも、エリスの体調変化からどうやら悪阻ではないかと察したのはエリスの母でしたが、その言葉を聞いた豊太郞の本音はこうであったと書かれています。

「ああ、さらぬだにおぼつかなきはわが身の行く末なるに、もしまことなりせばいかにせまし」(ああ、そうでなくてさえ、不安定な身分で、先行きの見通しの立たない状況なのに、もし本当に妊娠していたらどうしたらいいの?どうやって暮らして行けばいいの?)

 なんだかなーという感じですよね。いまや「ジャーナリズム」の存在を知り、新たな見識を持った誇らしい「自分」が芽生えたときに、妻(まだ愛人)の妊娠(まだこの段階では確定ではないですが)は子を授かった喜びどころではなく、ただただ「生活の不安を思い起こさせる知らせ」以外のものではなかったわけです。だったら子どもなんて作るなよと言いたくもなりますが、ともあれこれが豊太郞という人間の「真情」でありました。

 とにかく、彼には自信が無かった。あるのは不安だけ。「新たな自己」をつくり、ジャーナリズムという新たな知の領域では、他の追随を許さなかったと豪語した知の人豊太郞は、また、将来の生活の不安のおぼつかなさに、ただただ戦く、か弱い、頼りない人でありました。

 こういう彼の目の前に、再度救世主として登場するのが、あの親友相沢謙吉でした。その活躍2が、語られます。いよいよ、この小説の事実上の「暗いマックス!」に入りますよ。


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