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大人の「現代文」……『羅生門』13ちょっと横道にそれて

不易流行

 長いこと高校教師をして、15歳から18歳の日本の少年少女を見続けていると、自分をまるで「定点観測」しているサイエンティストのように感じることがあります。まあ「観測」というと人間をもの扱いしているようで失礼に響くかもしれませんが、あくまで比喩なので許してください。もうすこし文学的に言うなら、川岸に立って、流れゆく川を見ているといった『方丈記』ばりのあるいは『奥の細道』もどきの感想に近くなりますが鴨長明や芭蕉さんには恐れ多いので、分を弁え「観測」にしておきます。

 観測結果を言うと、生徒はものすごく変わりました。ほとんど天と地といった感じです。数直線の右端から左端といった感じです。そして生徒が変わったということはとりもなおさず、「大人」がかわったということであり、さらに言うと、「日本社会」が変わったということです。

 これは何故かというと、もちろんいろんな要因がありますが、簡単に説明すれば、ある世代は前の世代を反面教師にするということです。たとえば、団塊の世代の「自己主張しすぎ」「家族を顧みない」「うるさい」のにうんざりした次世代は、より「上品」で「家庭サービス」をすることを「美」とし、そのまた次の世代「サービスとはなんじゃ?家庭に目を向けるのは当たり前でサービスじゃないでしょ」と考え「私は料理も育児も当然する」「イクメン」といったスタンスになる、といったようなことです。
 
 基本軸は、「団塊世代」の「自己主張の下品」から後の世代の「上品」の追求があって、その一番わかりやすい言語現象が「……させていただく」の連呼です。「提案させていただく」「参加させていただく」「……させていただく」という表現の「普通化」でしょう。ま、一言で言えば、反団塊感覚の一般化・普遍化といったところでしょうか。

 こういう感覚がおのづから子どもに伝染して、とにかく自分を抑えることが良いことだな、という一般感覚を助長している(ように思える)というのが、私の実感です。こういうのがまず数直線の大きな「変化」です。(一区切り)



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