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天の道~真実の行方13話

     2章ー②

此処は、渓流会病院の3階病棟。
産婦人科をメインとする夜の静まりかえった病棟内に、ストレッチャーの
ガラガラとけたたましい音が鳴り響き、分娩室へと向かっている。
とにかく一刻を争う分娩が、今まさに行われようとしていた。
妊娠28週で破水してしまい、もはや防ぎようもない出産に臨む
若い母親は、必死に叫んでいた。

「私は、どうなってもいいから!!お願い!この子だけは助けて!」
ストレッチャーを誘導しながら、順子と瞳が母親に対し交互に声を掛け合う
「大丈夫……大丈夫だからね」
努めて笑顔で返しているつもりだが、リスクの高い分娩を前に
どこか緊張している表情が崩せない、と、お互いに感じ取る二人だった。

急な呼び出しにも関わらず、駆けつけた助産師の海江田由紀子は
既に分娩室で待機していた。この病棟の師長でもある。
しかし、其処に病棟医であり産婦人科を専門とする小早川の姿はなかった。
折りしも、小早川の出張に重なり、ドクター不在のまま
助産師一人と、ナース二人の、小スタッフで分娩が引き受けられようと
しているが、二人のナースは信じていた。

今回のように明らかにリスクが高く対応が困難と見込まれる場合、待機当番が連絡を受け、そのうち応援に駆けつけてくれることを。
前回の『小さな天使』の時のように、自分の手に負えない患者であっても
見栄や体裁の為に、専門への救急搬送を拒んだ人物も
幸いな事に、今夜は居ない。居ない方が良かったかも、とさへ思える。
あの『小さな天使』の二の舞にならなくて済むのなら。

これから生まれてくる子は、その周期からしても相当の低体重未熟児とみて
他にも問題を抱えている可能性は非常に高いと判断できる。
出生後は当然のように、専門機関に搬送されるものと思える。
助産師兼師長の海江田由紀子が手配は既に整えているはず……
だから、順子と瞳は、今はこの子が無事に生まれてきてくれる事だけを
願って、その為に力を尽くす事が最良の方法だと考えていた。

陣痛に苦しみながらも、その間ずっと一貫して。我が子の無事だけを
最優先に訴え続ける母親に、初めて恵まれた子供に対する
思い入れの深さを感じ取り、何としても、そうしてあげたかった。

若い母親、竹内玲奈はいつだったか、、つい何日か前に
お腹の強い張りで来診し、大事を取って入院治療を受けていた最中で
それに加え、胎児の発育が悪いのも、心配されていた。
未周期の、それも7カ月目での早産という事態に、自分の事より
我が子を気遣う母性愛で、その心は早くも満ち溢れている。

予想外の設定でなければ傍らには、よく面会に訪れていた仲の良い
ご主人に手を握って、励まして貰えていたに違いない
一人ぼっちの心細さが、手にとるように伝わっていた。

いくら胎児が小さいと予想されても、ドクター不在にて会陰切開も
ままならない分娩は難航し、母親はその分苦しそうで、その行為(切開)が、スムーズさを図る為に、どれほど必要な処置だったかを改めて
認識させられた気がする。出来る事なら変わってしてあげたかったが
ナースの立場では医療行為の範囲に不純する。
一瞬、小早川が‟たかが医者”から‟されど医者”に変わった。

この過程に於いて、あまり長い経過を辿ると、胎児に悪影響を及ぼしたり
するが心配するほどの時間を有さず、無事、赤ちゃんが通過し
出生の瞬間が来た。
予想どおり……小さいけど手足が動き、生きているのが確認できた。
血色が悪いチアノーゼは、出生直後の赤ちゃんには付き物で珍しい事では
なく、口腔内の羊水を吸い取って貰えば、その内、産声も上げるだろう。
だが心配なのは、そんな問題ではなく……予想通りとにかく小さすぎた。

小早川医師を筆頭とする此処では、やはり診れるレベルではない。
搬送が決定的に思われた。結局、応援ナースも来てくれないし
はなっから師長の判断では、応援など必要と思われてなかったのだろう。
母親を産後の処置に切り替える為、小走りに走り回る順子と瞳だったが
いつまでも赤ちゃんが抱き上げられない事に違和感を感じた。
普通だと、母親へのねぎらいの言葉と共に赤ちゃんが対面している頃だ。

その子は、通過した時点で抱き上げられず……
何か普通と違った処置でも受けている?何か手間取っている?
何かをされている?……何をされている?

先に覗き込んだ順子の目は、そこに釘付けにされた。
それに誘われるように続いた瞳の目も!

「ちょっと、、何やってるの!えっ?!」
声にならない声と同時に血の気が引いた。
白いガーゼを握りしめた師長の手は、赤ちゃんの顔の部分に伸び……
明らかに何かで湿らせたようなガーゼを、鼻と口に押し付け、更には
圧迫する為に、そこには力が込められていた!
呼吸を奪い続ける行為の意味するところは……

目に映る光景に対し、損なわれた理解力が遅れてついて来る。
咄嗟の判断が出来なくなるほど、人は、あまりにも衝撃的な場面に
遭遇した時、こうなるのだと初めて知った。

師長がこの場にあるまじき行為に及んでいる!
ようやく、その行為が認識でき、唖然とする二人に、まるで
見ない振りをせよ、気付かないふりをせよ、というように目配せの合図を
送る師長の姿は、もはや師長である前に、命を取り上げる崇高な職務にあるはずの、助産師としての姿も消え失せていた。

人として、最低限度の善悪に結び付く判断さへ、この時の彼女は
喪失してしまっていたのか。
前回の搬送を怠り犠牲になった『小さな天使』の件は教訓として活かされ
る事なく、この病棟に手の負えない者は、存在そのものを失くしてしまえと
そんな風に受け止めた結果なのだろうか。この世に在ってはならない行為が
よりによって医療現場で行なわれた事に、瞳は大変なショックを覚えた。

一旦、停止した思考回路が再び動き出す頃……レムとノンレム二つの眠りを
波のように漂い……本来の瞳が呼び戻されつつあった。 
  「この光景は……」
そう……これこそ瞳が悪夢を通してでも最も確かめたかった光景だった。
信じがたい物語と悪夢の接点が此処に在り、この光景こそ
坂口とし枝から聞かされた『凄い事』そして順子も口にした
『まさか……師長があんな事するなんて』の鍵が隠された場面だったのだ。

瞳はもう、気付き始めていた。
そう、今此処に居る私は幻なのだ。
ストレッチャーを押していたあの時から、『忘れてはいけない物語』の中に
私は入り込んでしまった。物語の中で目にしたもの全て……幻影の世界。
けれど、それは事実を確かめる為に、幻影として再現されたに過ぎない
真実の物語。
忘れてはならない物語を、封じ込めようとしている罪の意識が自分への罰となり、その為に、この幻影の世界に入り込んでしまうのだ……と。

坂口とし枝から、この話を聞かされた時から、許される筈がない出来事だと
知りながら、どうしたらいいのか分からず、時間だけが過ぎて行った。
犠牲になった『あの子達』に、何かを訴えられているようで
胸が締め付けられる。

「ごめん……ごめんね」
何もしてやれない自分が情けない。どう考えても可哀そうだ。
この世に折角、生を受け誕生してきたのに、生まれ落ちた場所が
悪かった、そんな理由で命とは簡単に無くなってしまうのか。
器の小さな医者のせいで、どうしても行われる事のなかった‟搬送”
という課題の為に、何の施しも受けず、しかも……あるまじき行為で
誰にも気づかれず静かに消えて行った‟命の在り方”が
どう考えても、たまらなく可哀そうで仕方がない

何か……おかしい。
命を扱う病院でこんな事が起こってしまっても、表面化する事なく
普通に流れていく現実は……どこか、おかしい。
このまま、時を過ごしていいのだろうか、、全てはそんな自分の心の現われが、この現象を引き起こすのだ。
今度、目が覚めたら、私はこの問題に向き合わなければならない。
瞳はこの現象を意味あるものと捉え始めていた。




















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