2021/01/05

大切なものを失った。

大昔の成績表など、僕(もしくは僕個人に関心のある奇特な方)以外には、まったく価値のないものである。僕には、あった。想像以上に大きな喪失感を抱えている。発覚から半日ほど虚脱していた。『甲子園の土』の例えがフィットする。何かに特別に打ち込んだとか、多くの挫折経験の中から得意を見いだせたとか、誰にもそういうものがあるのではないか。僕にとって成績表は、その軌跡もしくは爪痕なのだ。

昭和の時代の話をしよう。クソガキであり、通信簿の特記事項を悪い方に充実させるばかりの僕であったのだが、なぜか算数には光るものがあった(らしい)。当時、個人塾に形式的に通わされていたのだが、そこの先生に母ともども呼び出され、この子は算数がよくできるのでどうにかしたほうがいいと説かれた(らしい)。母はそれを真面目にとらえて方方を当たり、私立のエリート中学校を目指す子が行くようなところの入塾テストを僕に受けさせた。

すると5つある成績順クラスのトップに入れるというので、母は嫌がるクソガキの僕をママチャリの背中に載せて最寄り駅まで連れていき、僕をその塾まで電車通学で通わせた。週2の授業に加えて、毎週日曜にも校内テストがあり、また当時は小学校も週休1日制(土曜も午前だけ授業がある)だったので、僕には休みがなかった。不満はタラタラだったのだが、いざ塾に行ってみると授業も試験もパズル的で面白かったのでそれなりに楽しんでいたと思う。自分では全く気づいていなかったがきっとこのとき、僕は才能を発掘してもらったのだ。

一見、関係ない話をしよう。僕が中学1年で部活を始めるとき、当時はJリーグがまさにできたばかりで、同学年男子35%に相当する20人がサッカー部に入るほどの人気ぶりだった。僕もサッカー部に入った。僕は同学年のサッカー部員の中で20番目にサッカーが上手だった。練習には毎日通ったし、週末の練習試合にも毎回帯同した。おかげで3年間で2軍の練習試合に50回出場させてもらって、4得点を入れた。(同じ部活のO君はレギュラーの1試合で5点を入れている)。僕は得点を入れた日付を全て覚えている。思い入れは強かった。だけどどれだけ努力してもレギュラーにはなれなかった。ついに公式戦には1秒も出られなかった。僕にサッカーの才能はなかった。

そういう経験を通して、思うのは、何か才能のようなものを発掘してもらうことのありがたさ、機会を与えられたことのありがたさ、そしてある才能のために奔走してくれた当人以外の人のありがたさ、だ。そう、結局、クソガキのためにきっと何をすればいいか分からなかったところを何かせねばと走り回った母に感謝している。

そうして、大学に入って、成人して、ある日、母の鏡台の隣に僕や弟(弟もクソガキだったが、周囲のマイナスの期待を覆して一念奮起し、高2高3で猛勉強して第一志望に入った努力家である)の成績表を、小中高(+浪)と全て保管してあるのを見つけたときには「そんなものを後生大事にこの人もよくやるなぁ」と思ったものである。

この、そんなもの(行動)の重みが分かってきたのは、ずっとずっと後のことである。少しずつ年齢を重ね、子を育てることの苦労に気が回る程度の立派なクソになり、僕みたいなやつを育てるのには、面倒なことがたくさんあっただろうなと、思い至れるようになり。そういえば母が亡くなる前には「2人の息子を立派に育てることができてよかった」と言っていたことを思い出し……長く成績が振るわないときも、やがてそれが実ったときも、黙々と成績表を鏡台の隣に積み重ねていたのは、家事が趣味といっていい母親が、細々と、しかしながら信念を持って誇りに思ってやってくれていたことなんだなと、しみじみ感じるようにまでなった。

完全に処分されたと思っていたものが、奇跡的に半分ほど戻ってきた。小中高(+浪)とあったものの、前半部分である。残念ながら、僕も弟も受験期の分は戻ってこなかった。例えば僕は浪人時代、入試直前の模試で10連続でA判定を出した後に前期試験に落ちたというおもしろエピソードがあるのだが、もう証拠がなくなってしまった。弟も、猛勉強の後のV字回復を見ることができない。悲しい。失ったものは大きい。失ったものはただの価値のない紙束なのだ。本人と、本人個人に関心のある奇特な方以外には。

お手伝いさんは「何か、お母様から言われたような気がして、なんとなく残しておいたのです……」と言っていた。もし仮に、亡き母にこの世に干渉できる何かしら力があるのだが、全て失われるはずだった成績表の前半部分と後半部分のどちらかしか残せなかったとしたら、僕には前半部分を選んだ理由は理解できる。成績表の後半部分は、いまの僕と弟なのだ。母は、これからの僕らを見ているのだ。

そう、分かったので、寝る。明日も、ちゃんと、生きる。

(2021/01/06 へ続く)

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