2020/06/21

起きた。今朝は、オニオンスープとはちみつトースト。導入以下略。

さて『天気の子』である。フグハウスでは、原則食事は各人自由バラバラに摂るのだけど、毎月1回ほど一緒に夕食を共にしつつ映画を見る会が開かれる。(前回はアナ雪2だった) 今回は『天気の子』をみた。

とりあえず、上映時間114分を終えたあとのフグの反応をごらんください。

現在に至る。

まず、見終わってから1時間経っても余韻が継続していて「『天気の子』を見た、死んだ」の言い換え以上のことを述べられていないのが深刻である。

ただ、こう今は、何となく脳内を渦巻くものがあり「映画の内容に1ミリにも触れずに」というレギュレーションに縛られた上でも、日々の平均的なデフノート(おおよそ1400字程度)を書くときよりも、ずっとずっと大きな「なんとなく書かんとあかん気がする……」という要請を、背後から無意識が迫っているのである。

来歴から語ろう。『天気の子』は前々から気になっていた。昨年(2019年)4月の劇場公開時、当時のツイッターでは大変好評であったことは覚えている。また自分に近いある種のコンテキストを共有したオッサン層が絶賛していたことも覚えている。

今日『天気の子』を初めてみたということは、この公開の時期に、自分は観に行かなかったことを意味するのである。なぜなのか? 当時、脇目も触れないほど何か別のものに打ち込んでいたとか、そういう積極的かつ具体的な理由を見い出すことはできない。余暇・余裕は十分にあったはずなのだ。

なぜ自分はこれまで『天気の子』と接触しないでこれたのか。ある程度、機序を推測することはできる。まず、同作監督による前作『君の名は』が大変好評であったこともあり、『天気の子』に関しても多くの人手が予想されたことが挙げられる。僕は人が多いところが苦手なので、そういう中で劇場に出向くことが困難であった……のではないかというのが第一の推測である。

次には、自分と属性を共通する層が、この映画を絶賛していたことにある。僕は、大きな注目を集めているものは一通り熱狂が冷めてからフラットな気持ちで接したいという本能みたいなのものがあり、例えばドラクエとかそういうみんなが一斉にやり始めそうなゲームは半年経ってから、じゃあやるかと、腰をあげるタイミングを意図的にずらす癖があるのである。『天気の子』にもそういう「自分の大好物である可能性は感じつつも、熱狂と混同して感慨が歪むかもしれない」という、本能的忌避から見るのを控えていた……のではないかというのが第二の推測である。

ここまでは、上映当時、観に行かなかった理由(の推測)である。では、その上映時期からさらに1年間経り、円盤も配信も絶賛解禁され、同時性の熱狂も十分に落ち着いた状況で、なぜ僕が『天気の子』を見ていなかったかについて述べる。以下に話すことは、推測というよりは確信である。

それは『天気の子』の前作が『君の名は』であることが原因である。

もう少し更に時間を遡りつつ、僕は新海誠という監督を恐れていることも告白しなければならない。私は『ほしのこえ』も『秒速5センチメートル』も見てきた生物である。この2つの作品についても、この日記で感想を書くことをレギュレーションで禁じていられるかというと、グレーなので明言しないのだけれども、まぁ、その、何かしらの感慨が尾を引き得るお話ではないだろうか?

一方、『君の名は』では、脚本を監督と製作会社の共同創作とすることで「ど真ん中」のエンターテイメントを目指すことができ、それもあって大ヒットに至ったというお話を、僕は聞き及んでいた。だからこその次回作の『天気の子』において、特にまだ視聴前で事前情報を意図的に遮断している文脈フラットな状態において、制作サイドが『君の名は』と同じことをしては意味がないですから、じゃあ今度は強い作家性の牙を向かせましょう、という考え方で脚本をもっていっても、おかしくないではないだろうか。

そういう予期不安みたいなのが自分の中で、一度可能性として構成されてしまうと、こう昨年春のTLを賑わした、自分に近いある種のコンテキストを共有したオッサン層の絶賛も、実は熟知した彼らによる無言の連携が織り成した集団的孔明の罠なのではないかとすら思えてきてしまい、書店に並んだ小説版天気の子のさわやかな書影も、善意で装飾された地獄への片道切符(定価:命)なのではと勘ぐってしまうのであった。

だからこそ、このフグハウスで、ほとんど偶然に「寿司くいながら『天気の子』みませんか?」と提案いただいたことは、最高のタイミングだった。

既に昨日からその兆候はあったのだが、運良くこの日は予期不安が消滅する日だったのだ。「そうはいってもあるがままの『天気の子』をいつか人生の上で受け止めなくてはならないだろう」と、心の中の責務として抱えてきたことを成し遂げるのは、積極的受動的態度を最大限に発揮できている今しかなかった。約束の夕食会の時間が訪れ、食卓に置かれた出前の寿司を積極的受動的態度をもってひたひたと摂食し、リビングを消灯した。

『天気の子』との114分を過ごした。

最高だった。だいたい複数人で映画を観賞したあとには、○○だったね〜 みたいな感想を言い合う流れになりがちなのだけど、今回は「俺一人のためにこの映画を創ってくれて本当にありがとうございました」という非常にエゴイスティックな気持ちが自分を全面に覆い尽くしていまい、追加の感想戦を必要としなかった。

すごく大ざっぱにいって、僕がこの2020年のうちに1000単位の「やるべき何か」をこなさなければならないとしよう。今日「『天気の子』を見た」ことによって300単位以上のやるべき何かを果たした、と思っている。すなわち、今から3ヶ月半脳死状態で過ごしても、まだお釣りがくるくらいである。

「優れた小説を読むとき、読者はあたかも読者個人に向けて書かれたように感じる」ということを村上春樹氏の作品への書評だったで目にした。特に多層的な構造を持つ小説を読むとき、そういうことを感じることはある。一方、『天気の子』については、間違いなく自分を対象に創られた作品であると僕が感じた事実はあるのだけど、そうはいっても、これが最も刺さるの俺というか俺らであって『君の名は』の刺さった多数派ではないよね? というところは、どうしても主張してしまいたくなる。

もし、この主張が全くの的外れでなくて、そしてこれが『君の名は』とは異なる価値を提供したいという『天気の子』の創作意図と共通部分を持つのだとしたら……そう、僕が向けられたのは作家性の牙などではなく、ある同時代を過ごした兄貴分からの労いの手だったのだと思い直せるのだ。

常々申し上げていることだ。私はロスジェネ世代の末弟であり、少し上の世代は就職氷河期で世間のシステムから取り残された。新海誠氏はそういう世代の兄貴分である。今もこの世代の救済は終わっていない。世間のシステムは、この世代を永遠に取り残す未来へと突き進み続けている。本当に困窮したとき、我々はどうすればいいのだろうか。兄貴分は『天気の子』を通して、私はこうするよ、と俺たちの背中を押すメッセージを送っているように思えてならない。

- 英単語 500words
- 数学の演習(2/-/-/-)
- ヒザ曲げ立位体前屈 1min
- 睡眠時間 3-8.5, 9-15 (11.5h)

こんなところである。明日の天気予報は雨である。どのような天気にも関わらず、私は私の信じる小さな人生を続けていこうと思う。

(2020/06/22 へ続く)


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