三重野元日銀総裁の証言に対する雑感①

インフレ率2%の目標を目指しながら、異次元緩和という壮大な実験を行い、その実現に失敗した現在の日本銀行が置かれた状況は極めて深刻なものですが、1980年代後半から90年代前半のバブル生成と崩壊過程も大変でした。その時期に日銀の副総裁、総裁を務めた三重野康氏の口述回顧録をベースに、日経新聞が毎週末の連載で紹介しているものです。第1回は、株価や地価などの高騰の発端となったプラザ合意を取り上げています。

この記事の中で、やはり異様に思われるのは、金利引き下げのペースです。

1986年の1、3、4月と利下げが決まり、さらに10月にも決定された。当初5.0%だった公定歩合は3.0%に下がった。米国がドル安容認カードをちらつかせて、日本の内需拡大を求めたことが背景にあった。三重野氏は国際協調の論理によるハイペースの緩和に嫌な感じを抱くようになる。

日本経済は不況でもないのに、たった9か月間で公定歩合を5%から3%に引き下げたわけで、かなり乱暴な政策であり、バブル生成の契機になるのは当然に思います。現在の日銀の金融政策にその教訓が生かされているか否か分かりませんが、以下の三重野副総裁の言葉は重いものがあると実感します。

「(金利を)下げること自身はそんなに抵抗はないのだが、テンポとかそういうものはある程度状況を確かめながら下げていかなければならない。国際協調だからとダンダンと下げるのに対しては、嫌だなと思った」「マネーサプライ(通貨供給量)とか土地の値段の懸念も若千あることだし」
「当時の宮沢(喜一大蔵)大臣とベーカー(米財務)長官との間で、為替安定について日米ジョイント・ステートメント(共同声明)を発表しようという話がずっと進んでいた。『そういう合意は為替安定のためには必要だと思う。そういう合意ができれば、金融政策の選択肢の範囲が広がるのではないか。それはそれで結構だと思う。だけれども、合意を得るためにマル公(公定歩合)を下げるというのはおかしいので、筋道が逆。そんなことをして、いわゆるジョイント・ステートメントそのものが中途半端だと結局、食い逃げされる。為替に関する合意が成立した場合でも、国内の経済情勢から見て、ただちに公定歩合の引き下げは不可だ』と総裁には説明した」


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