心の中の愛する人。

9/6になれば、亡くなった主人は62歳になる。
毎年思い出しては、涙したりどうしようもない寂しさに囲まれているが少しだけ、理解も出来ていていと惜しむようになったかもしれない。
愛する人は色あせず、声も顔も変わらない。

たまに夢で逢う彼は、あの時のままでお菓子やコーラをせがんでいるのだ
足が不自由になってから特に辛くなる心境が濃い、誰もせいでもなく前向きに頑張れば頑張るほどに、奈落の底に落ちるような心境にもなる。

苦しくても悲しくても
海は優しく波を立てている。

心を癒すのは自然が私には向いているようで、海も山も風や空も私には特効薬だ。何も話したくないけど波音は聞いていたい。
よせては返す砂の擦れ合う音だけでもいい。

たまには美味しい画像も気分をあげてくれるわけで、生きているという実感も湧いてくる。

海鮮ってエネルギー感半端ないよね。
弾む会話とほころぶ笑顔が更に美味しく感じさせるわけだ。

お盆の頃不思議な出来事がおきた・・・・
それは、一人で部屋に居る時に洗濯ものを干している洗濯ばさみが地震でもないのにずっと揺れているので、ぼんやり見ながら愛する人を思い浮かべ心の中で話しかけていた。
ずっと揺れているので不思議だったが、形見のカフスボタンを取り出して触ったり眺めたりしていた。あれはなんだったんだろう?
きっと私への合図だと確信している。例えばどちらかが先に死んでしまったとしたら合図をしあおうと話していたから。
変な約束をしたのも、私ども夫婦らしいと今更ながら思うのだ。

会えないんじゃない、私の一部として彼は居る
いいにつけ悪いにつけ、傍に居るんだよ。
見えない足で山道を歩き、光に導かれて彼と人生を歩いているんだ。


ずっと一人ではない
気が付けば周りにほほ笑む人が居るではないか
親や子供に友達も居る。

9/6(苦労の日)はハンバーグを作ろうと思う。
フライパン全部を使ったハンバーグを食べたがっていた、愛する人を祝って。その前にフライパンを買わないといけない事を今、思い出した。






私の望む世界を自分なりに表現したいと思います。大体実話でございますのでよろしければ、読んでいただけましたら小躍りしたいと思います。足が不自由になってからより書きたいと思う事が増えてまいりました。私には背中に翼があることを隠せない性分なのです☆