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春がきた

春の訪れを感じさせるような3月の暖かい日差し。今日は雲ひとつない、快晴だ。初めて見た、何も知らない土地の電車の中から見る景色。颯爽と雑木林を駆け抜けたときに指す光の筋が、あまりに眩しかった。あまりに光が眩しいものだから、ひび割れが酷い手で顔を覆った。その手の中で彼女は、他人の何気ない言葉や行動、全てに意味を求めようとするのをやめようと思っていた。自然とそう思った。

ヒュンヒュンと、車窓の隙間から入り込む風を感じながら、ただ彼女は車窓から遠く離れた街を見つめているばかりだった。


読み慣れない地名も、きっと誰かの人生では故郷にあたる。そこには人々がいて暮らしがある。子が大きくなり、また子を産む。その繰り返し。彼女は不思議な気持ちになった。この世界はきっと自分が思っている以上に何倍も何十倍も大きくて広くて、単純なのかもしれない。


右から左から、まるで幾度も訓練された軍隊かのように華麗に交差しながら歩く人々の波。一人一人の言葉が肥大化された人々の鳴き声。彼女は、ここに戻ってきたんだ、と実感させられた。
無数の人間が醜かった。彼女は、これじゃあ前が見えないじゃないか。ここがどこなのかすらもわからないじゃないか。と腹を立てた。
人の波に揉まれ、己の続く道を見失った者が下に向かって飛んだ。瞬間、地面が濡れた。おわりだ、と彼女は本能的にそう感じた。


次に彼女が息を吹き返したときは、なんの正義も意思も意味すらもない、大群の中に彼女は居た。舵を切るのは他の誰でもない彼女以外の人だった。
べっとりと肌に纒わりつく闇のせいで、前進は愚か、後進すらできなかった。前を進もうにも、黒よりも黒い闇の中で自分の目が開いてるかすら不確で。彼女はずっとそうだった。太陽が貴方と彼女を照らしている気持ちよさも明るさも、一面が青に包まれた草原をも知らない。春の薄紅色も鴇色すらも知らなかった。
彼女はそのままの一生を生きればいいと思っていた。気付かない方が楽だから、何も気付かないで。知らない方が楽だから、知らないふりをして。嘘を積み重ねる。そのうち暗くて重い電球の光が疎らになって遠のいていくのが分かった。追おうにも追えない、近くてすごく遠い光になっていった。
それがもう終わりの合図であることを彼女は昔から知っていた。抗わず、目を閉じて。さようなら。

パチパチ、と竹が燃えてゆく度に火の粉が飛び散りながら、炎はさらに威力を増していった。彼女には、ここのもの全てが温かく感じられた。体面だけではなく、心まで温かくしてくれると思った。そう思ったことを和尚さんに伝えた。
和尚さんは口の横から溜めた煙をゆっくりと吐き、煙を全て吐ききってからまた息を吸い込み小さな声で、そうかい、と微笑んだ。

傾いた太陽に背を向けて歩き始めると、光は足元の影を精一杯、どこまでも伸ばした。まだ、これからだと。


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