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共同体「きしだ家」を考え始めたお話①

こんにちは!Deep Japan Labメンバーのきっしーです!

岸田雄也最近

新型コロナウィルスが猛威を振るっておりますが、みなさんお元気でしょうか。私は体調も悪くなることもなく、大好きな甘いものを食べて元気に過ごしております~笑。
色々な方と直接会って話せないのは悲しいですけれど。。はやく終息して!医療従事者ありがとう!

さてさて、そんなコロナの影響により、在宅勤務や休園休校、外出自粛など家で家族と過ごす時間が増えてきているのではないかな~と思います。
私もリモートワークが基本となって、嫁が航空関係なのでほぼ自宅待機になり、一緒にいる時間が前に比べて5倍~10倍に増えたと思います。(いや、前が一緒にいなさすぎだろ!という話に聞こえますが、違いますよ!?笑)

一緒の時間が増えると、

・家族とどう過ごそうかな~
・どうやって自宅で楽しいことができるかな~
・職場の同僚と、なんてことはない話をするの楽しかったな~
・友達と休日ランチをする時間、大切で愛しいものだったな~

などなど、思うことが多くなったりしませんか?

その言葉自体を意識してはいないものの、上記のように家族だったり、職場だったり、友人だったり、自分の属している環境、言い換えると自分の「共同体」というものについて、ちょっと考えてみたよ!という機会が世界中で起きたのではと思います。その「共同体」について、このようなご時世になる前から、私は自分ごと化して少し考えていたので、ちょっと書いてみたいと思います。文章力がなさすぎてまとまりのない文章だと思いますが、少しでも私の「共同体」の捉え方に共感してくれる人が、自分の「共同体」について深く考えてみるきっかけになれば嬉しいなー。

岸田的「共同体」解釈

岸田的共同体解釈。漢字が8個並ぶと中国語っぽいですね笑。
まあそんなことはさておき、なぜ私が共同体について考えるようになったのか。

「共同体」を辞書で引くと、次のようなことが書かれています。

【家族や村落など、血縁や地縁に基づいて自然的に発生した閉鎖的な社会関係、または社会集団。協同体。】-goo辞書

「共同体」という漢字からもなんとなく推測できるように、「共同」の集合「体」という意味でおおまかに捉えている人が多いと思います。漠然としていますが、それで間違いではないと思います。ただ個人的には、自分の想いも含めて、もう少し深く捉えてみました。

岸田の大事にしたい想いのひとつに、自分で言うのもあれですが、おもてなしというものがあります。おもてなしという言葉に行きついたのも、割と最近なのですが、昔から共通してあったことは、「自分が何かをすることで、相手に喜んでもらいたい」ことです。ただ、どうしてこう考えるのかを紐解いたことはなく、みっけ旅「自然と共同体」に参加したことで、考えることになりはじめました。(みっけ旅「自然と共同体の詳細は、ここではなく別の形でまた紹介する予定です!)

当時ベストセラーにもなっていた、アドラーの「嫌われる勇気」。
これが先の旅の課題図書でした。

嫌われる勇気

嫌われる勇気ってなんぞ?

アドラーさんは「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに対して、ばばーんと“答え”が提示されています。その答えは『自分の課題』 と『他者の課題”』の分離だと。

いやあー分かるようで分かりにくいよね、固い言葉ってー笑。

アドラー心理学の考え方での大前提は、「全ての悩みの根源は”人間関係によるもの”である」というものです。その中でアドラーは人から嫌われる勇気を持つべきと唱えています。人から嫌われるということは、自分が自由に生きるために支払わなければいけない代償であり、それが自分自身が自由に生きていることの証にもなります。あらゆる人に好かれようとする人生は素の自分ではなく、偽りの自分を演じることになるので全く自由ではないことになります。

他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると、最終的には
「他者の人生を生きること」になってしまいます。自分の行動に対して、他人がどういう反応を取るかは『他人の課題』だということです。アドラーは『他人の課題』について必要以上に気にすることは止めて、『自分の課題』を解決することに集中しようよ!と言っています。

つまるところ、今自分自身が取り組もうとしていることは、誰の課題なのかを自分で考え、もしもそれが他人の課題なのであれば、考えることを止める/取り組むことをやめる勇気を持ち、自分の課題だけに集中しましょう、ということです。誰かの課題をその人に好かれるためだけにやるというのは愚かなことだと。

私も、自分の属している共同体に対して、嫌われたくない一心で、本心とは違うことを言ったり、振舞ったりしているなーと。改めて自分の所属している共同体ってなんだっけ、そしてその共同体でどう振舞っていくんだっけ。どう考えて接しようかなと考え始め、さらにみっけ旅を経て、色々な人たちの暮らし方や考え方に触れて、自分なりに「共同体」に必要なものとは何かを考えて出たものが「愛」です。

きっとここから愛なんだ
はじめることが愛なんだ
傷つくことを怖れちゃ
だめ だめ だめ だめだよ BABY
つらいときでも愛なんだ
できるなにかが愛なんだ
信じてみてもいいはず
あきらめない明日の太陽

V6のいのっちに昔似ていると言われました、きっしーです。
彼らのV6の「愛なんだ」の歌詞にもありますが、傷つくことを怖れずに言う/行動をすることが愛の始まりなのかと。相手がどういうことを考えていて、それにどう応えるのか、受け入れるのか、全て「愛」があれば、相手が考えることも受け入れられるし、その考えに基づいた行動をしていても納得するし、相手が間違えていたらたとえ争うことになったとしても、それでも突っ込んでいくのは、とても勇気もいるし体力も必要。だから「愛情」がないとできない。逆に「愛」があれば何でもできる!アントニオ猪木の元気ではないけれど、「愛」を注ぐことができるひとたちの範囲が、自分の共同体なのではないかなと。いや私はキリストではないですよ、全人類のアガペーではなく、自分の「愛」の範囲内です笑。

この共同体の捉え方をして、私は自分の共同体の形成の仕方や、共同体をつくる人たちとの接し方を考えるようになりました。そして先に書いたとおり、私の行動規範のひとつに「自分が何かをすることで、相手に喜んでもらいたい」こととご紹介しましたが、その相手とは、共同体にいる人で、その人に何かをしてあげたいというのが接し方なんだなーと、この旅で気づく形になりました。

ただ、その行動規範は、ちょっとまだギスギスしていて「自分がどうなろうとも」「自分を犠牲にしてでも」とも考えていて、自己犠牲呪文(ドラクエでいうところのメガンテ)を唱えてでも相手に喜んでもらいたいと思っていました。次回は、メガンテを唱えるのは、それはおもてなしではありまへんで!ということについて教えてもらったお話をお伝えできればと思います。

今回は「共同体」という言葉をこんなに連発する文章になってしまいましたので、読みにくい部分が多かったと思いますが、ここまでお付き合いいただき有難うございました!