自由を、ありがとう
私の高校生活は最高だった。
制服がない、校則は必要最低限。
『自由と規律』を校風に掲げた京都の公立高校に通っていた。
制服がないことが、校則がほとんどないことがよかったわけではない。
なにもルールがない中で、自分で考えて決められる自由をもらえたことが嬉しかったのだと思う。
例えば明日は体育があるから着替えの手間をなくしてジャージで行っちゃおうとか、
金曜日は発表があるからちょっとかっこよく黒の服できめようとか、
状況に合わせて自分の意思で身なりを決めることを日常的にしていた。
そうやって自分で考えて行動する力が高校生のうちから自然と身についていたことは、私の中ではとても大きいことだと思う。
社会人になった今感じることは、決められていることの方が少ないということだ。
仕事のやり方、プロジェクトの進め方、ある程度の型やテンプレはあったとしても、どうするかはもう自分で決めていかないといけない。
いずれは自分で決めていかないといけない、ルール自体をもしかしたら見直したり作る側になるのなら、それを高校時代から実践できる環境にするのは、私はありだと思う。
それがもし難しかったとしても、今ある校則のルールが作られた背景を知る機会や本当はどうありたいのかを話す機会を作ってもいいと思う。
なぜなら、ルールには必ずルールを作らなくてはいけなくなった理由があると思うから。
そして、高校を卒業してからも一人一人の人生はその先も続くし、常に自分はどうありたいか、生きたいのかを考えなくてはいけないから。
大学受験や就職試験に合格するためだけの高校じゃない。
これから続く人生で必要なスキルを身につける、そのために校則と向き合う時間を作ることも教育の一部なのではないだろうか。
自由で多感で未熟で愛おしい高校生を、
理由も知ることなく厳しい校則で縛ることは、私は許せない。
許せないんだ、とこのnoteを書きながら自分の気持ちに初めて気づいた。
じゃあ今の私に何ができるかと言うと、こうやってnoteで発信することしかできないのだけどまずは声を上げることから始めたいと思う。
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