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はちどり

ハチドリ は鳥綱アマツバメ目(ヨタカ目とする説もあり)ハチドリ科に分類される構成種の総称。毎秒約55回、最高で約80回の高速ではばたき、空中で静止するホバリング飛翔を行う。「ブンブン」 とハチと同様の羽音を立てるため、ハチドリ(蜂鳥)と名付けられた。英語ではハミングバード Hummingbird で、こちらも同様にハチの羽音(英語における擬音語が hum)から来ている。足は退化しており、枝にとまることはできるがほとんど歩くことはできない。

資本の増大のみを志向する歪な社会は、市井の人々の断絶を深める。富裕層/貧困層間の共依存的な”寄生”をエンタメ要素を多分に交えつつ半地下から鮮やかに引き摺り出してみせたのが『パラサイト』であるならば、キム・ボラ監督が『はちどり』を通して、その静謐なタッチで描こうとしたものは何であったか。

90年代の韓国は、ソウルオリンピックの勢いをそのままに、先進国の仲間入りへの連帯を強めていた。しかしながら、急速な経済成長には様々な代償が付き纏う。”家として財を為す”、その実現の手段としての受験競争における勝利の希求は、家父長制と結びつき、家庭に大きな影を落とした。本作の主人公は女子中学生のウニである。家庭に押し込められる女性として、また家父長制のもと不当に虐げられる存在として、彼女は二重の桎梏によって身動きをとることができない弱者であった。彼女が世界に対する不満を大声で吐露できるのはトランポリンの上だけであるが、そのトランポリンの周囲も鳥籠のように柵に囲われている。タイトルの”はちどり”とはもちろん、一見その場で浮遊しているようにみえるが、多大な内的葛藤の中でもがくウニの姿を象徴している。

本作の秀でた点として、ウニ(パク・ジフ)の眼差しのカットがある。ビクトル・エリセ作品を思い出すような透明な眼差しは、時にはカメラとの正体に耐えうるほどの強度をもって観客を射る。中でも、ウニが屋外に佇む母親を見つめるカットは非常に印象的であり、本作品の母親像が明確に示された場面である。叔父曰く、母親は良い大学に進学する優れた頭脳を持っていたらしいが、結婚によって進学を断念し、現在はキム一家が営む餅屋での労働に疲弊している。ウニが屋外で見た母親は家庭(彼女にとっての労働の場)から逃れて、束の間の安らぎに身を浸しているが、ウニは母親に無邪気に声をかける。家庭とは異なる母親の様子に違和感を覚えつつ、ウニは彼女に対して声をかけ続ける。その声が半ば叫びに近い音量となっても、母親はその声に反応することなく、漂うようにウニから遠ざかってしまう。この間、母親の顔はウニから一切見えないアングルを保ち続けるばかりか、観客にさえも彼女の表情は一切明かされない。ここでは“母親“にとって家庭が労働の場であり、その外においてしか関係から解き放たれた“自分“となることができない閉塞感が示される。また一方では、母親の“母親”以外の側面は他者からは理解不可能であることがウニの視点を通して見事に描き出されている。

先のような一つの立場に加担しすぎることのない描写は、本作品の優れたバランス感覚の獲得につながっている。本作の英題がHouse of Hummingbird(はちどりの家)となっているのは、未だどこにも飛び立てず、静止しているように描かれる存在はウニだけではない、という意図を汲んでのことだろう。ウニの耳の下に出来たしこりについての診断を聞き本人を差し置いて号泣する父、ソウル大進学へのプレッシャーの捌け口として妹に手をあげる兄(デフン)といった、家父長制下の男性が抱えた捻れた弱さをも、キム・ボラ監督は丁寧に拾い上げる。また、突如として死亡したことが明らかになる叔父(キム家を夜更けに訪ねた際の様子やアルコール中毒的な挙動から、死因は自殺ではないかと推測される)や、ウニが唯一心を開く漢文塾のヨンジ(本棚の『資本論』、ウニたちに歌った労働歌から、学生運動の敗残者としての傷を負った存在であることが暗示される)が密かに苦悩を抱えていたことも示唆されている。ウニの親友であるジスクも、顔の傷や万引きの際の怯えた様子から、家庭内の暴力の被害者であることが示される。ここで行われているのはフェミニストの立場からの男性の断罪ではなく、90年代韓国社会の、ありのままの軋轢と煩悶の記録である。

本作は、買い物から帰ったウニが集合団地の部屋番号を間違える、といったカットから始まる。この時のウニの様子からすでに家庭内の不和が窺えるわけだが、その不和が決定的に表出するのは食事のシーン、より具体的にいえば“食器の音”である。不機嫌な父親に遠慮して、誰も食器の音を立てない。父親が黙れば今度はその沈黙を埋めるように食器の音だけが食卓を埋める(だからこそ終盤の姉がぽそっと呟く“美味しい”という言葉は感動的。)。抑制の効いた劇伴があげる効果も伴って、音の使い方からは野心的な印象を受ける。恋人に送るテープの録音がローファイな音質から作品のBGMとして変容していく様、兄のビンタで鼓膜が敗れた際の音処理、崩落したソンス大橋を見るウニの吐息の拾い方など、特記すべき点は枚挙にいとまが無いが、Matija Strnišaが手がけた静謐なアンビエント調の劇伴(グリッチ音のないTelefon Tel Avivといった趣の、素晴らしい音楽だと思う)の中で、自然音や生活音が鮮やかに人物の心情に補助線を引いている。

最後に、ウニが唯一心を開いたと思われる漢文塾のヨンジについて。ウニがヨンジに全幅の信頼を置いていたことは挙動以外に、小道具のレベルでも示されている。ベネトンのリュックをはじめウニは常に黄色のものを身につけている。地下のクラブに行くシーンのTシャツや、彼氏とのデートのシーンの靴下など、ウニにとって黄色が特別な色である描写は繰り返される。作品の終盤、漢文塾を辞めてしまったヨンジに対して、ウニが送る便箋の色は黄色である。「私の人生もいつか輝くでしょうか?」という問いはヨンジに届くことはない。しかしながら、ヨンジはその答えをすでにウニに対して示している。それはしこりを摘出した後に交わした約束と、何も描かれていないまっさらなスケッチブックと、「この世界は奇妙で美しい」という手紙、である。恋人との関係も清算し、家族からも離れていくバスに乗り込む前に戸惑うように周囲を眼差すウニを捉えたラストカットは、この映画が一つの極を志向して布石を打っていたからこそ、胸の奥に静かだが確かな余韻を残す。

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