見出し画像

WAVES

アメリカのティーンエイジャーを描いた“青春映画“を見るたびに、「頼むから車に乗ってる時は運転に集中してくれ」と思ってしまう。こいつらがめっちゃ口論してる間に、いきなり横から車が突っ込んできた挙句、流血しながら好き勝手ドラムをバカスカ叩いてそのままエンドロールになるんじゃねぇかという疑念が湧いてきて、色んな意味で気が気でない。あとパーティーで過剰なまでにはしゃいでる様子も職業柄すごく気になる。あの場にいるほとんどの人間が、一発で退学だと思う。

『WAVES』の前半は悪性のハラハラ感を観客に突きつける演出が続いて、かなり疲れてしまった。「お洒落映画と聞いてきたら、JOKER観せられました」という感じに近い。すぐにでも手術が必要な負傷を隠したままレスリングの試合に出て左肩が壊れるシーンや、彼女の妊娠が発覚して双方とも典型的なまでに激昂する場面、そのままオピオイド系鎮痛剤への依存が始まってしまう様子は、見ていられないほど痛々しい。その痛々しさに蒼いライティングが重ねられる画作りからは、『ムーンライト』の遺伝子が脈々と受け継がれていることを感じさせられた。『ムーンライト』は“同性愛者の黒人男性“という二重の社会的弱者の像を照らし、その成り上がり(と常に付き纏う破滅の影)を描いた。それに対して今作は、たとえ経済的な豊かさを勝ち取れたとしても続いていく黒人層の苦悩を描いている(主人公タイラーの部屋にはカニエ『Life of Pablo』のポスターが貼ってある)。

父親の過度な期待を背負い込みレスリングに打ち込む高校生タイラーには、合衆国が歩んできた男性中心主義の挫折と反省も投影されている。「負けてたまるか、俺は最新鋭のマシーンだ。」という言葉を“大人に連呼させられる“タイラーが感じる内的な葛藤とその感情の吐露については、劇中の挿入歌が代弁する機能を負わされている。劇中の使用曲の歌詞を丁寧に訳してくれているのは“プレイリストムービー“というキャッチをつけた落とし前なのかもしれないが、その辺の日本語字幕が五月蝿いという印象は拭えない(RadioheadのTrue Love Waitsの歌詞だけは演出上必要だったと思うが)。先述したキャッチは、映画の独創的なライティングや演技を差し置いて、楽曲を“前景化させなければいけない”かのような圧を生んでいて、作品の魅力を矮小化してしまっている節さえある。しかも予告で流れていたGodspeedは劇中で流れない。俺はそういうのはあんまり好きではない。注目すべきはウォッチメン等に引き続き素晴らしい仕事をしているトレント・レズナーが手がけたオリジナルスコアで、その軋むような音が挿入歌で拾い上げられないような軋轢を全て回収している。またケンドリックのBackseat Freestyleがハッパを吸った瞬間にスクリューされるというギミックもあって、そのカットは炎の赤が顔に反射する様子も相まって非常にキマっていた。「色んな曲が使われていますよ」というところでこの作品の音楽についての話題が止まるのは勿体ない。

『WAVES』は二部に分かれた構成が明確に意識された映画であり、また映画のファーストカットとラストカットが示すようにそれらは波(WAVES)のように、行きては戻り、という展開を辿る。二部間の境界はタイラーの行きついてしまった一つの極(その瞬間以降のアスペクト比の変更)によって明確に示されているが、このアスペクト比の変更は十分な描写がないまま通り過ぎてしまって、ただの飛び道具と化してしまった感が否めない。極端に画角を狭めることによって人物の心理状態を表現せしめた作品としてはネメシュ・ラースロー『サウルの息子』などが挙げられる。ゾンダーコマンドとして、ユダヤ人同胞の死体処理を任されたサウルの視点が狭窄状態にあることの説得力を考えると、本作の比率変更の必然性は薄く見えてしまう。その印象の差異は、両作品が扱うテーマの差に起因したものではないと思う。そもそも二部は誰の物語なのか、妹なのかその恋人なのか、両親なのか。家族にとって本当の意味の快復とはなんなのか。画面比率の変更がその辺りの焦点をかなりボヤけさせてしまったんじゃないかと思う。

全体として、その挑戦を好意的に受け止めきれない部分が残ってしまったが、様々な映画のDNA.を受け継ごうとする野心を感じる作風は好印象だった。何よりスタッフロールのAlabama Shakes「Sound and Colour」は最高だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?