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濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

「寝ても覚めても」に続く、濱口竜介の商業映画2作目。「親密さ」「ハッピーアワー」が人生ベスト級に好きな映画であるため、この作品の公開を心待ちにしていた。本作の骨組みは村上春樹「ドライブ・マイ・カー」(『女のいない男たち』所収)である。また『女のいない男たち』に収められた「シェエラザード」に登場する主婦の設定が家福の妻である音の設定に、「木野」で妻の浮気を目撃する男の設定がそのまま家福の人物設定に用いられている。

 本記事では、濱口竜介のフィルモグラフィに共通する関心、村上春樹による原作との比較、チェーホフ『ワーニャ伯父さん』との呼応、等の観点から作品の考察を行う。

あらすじ

舞台俳優であり、演出家の家福悠介。彼は、脚本家の妻・音と満ち足りた日々を送っていた。しかし、妻はある秘密を残したまま突然この世からいなくなってしまう――。2年後、演劇祭で演出を任されることになった家福は、愛車のサーブで広島へと向かう。そこで出会ったのは、寡黙な専属ドライバーみさきだった。喪失感を抱えたまま生きる家福は、みさきと過ごすなか、それまで目を背けていたあることに気づかされていく…

『ワーニャ伯父さん』との呼応

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本作で家福がたどる道程は、『ワーニャ伯父さん』におけるワーニャのそれと酷似している。ワーニャはかつて崇拝していた教授(セレブリャコーフ)がただの俗物に過ぎないことを悟り、無為に過ぎ去った歳月を惜しむ。

「泡と消えた人生!  ぼくだって才能もあれば、頭もある、度胸だってあるんだ……。まともに人生を送っていれば、ショーペンハウエルにだってドストエフスキーにだってなれたんだ……。戯言はもうたくさんだ!  ああ、気が狂いそうだ……。母さん、ぼくはもうダメです、ダメだ!」
—『ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)』チェーホフ著

ワーニャと同様に、家福もまた自身の人生に傷を負う人物である。妻との間に生まれた娘との死別。「話したいことがある」と言い残して死んだ妻の存在。妻はなぜ他の男と寝ていたのか、妻は不貞を家福が目撃したことに気づいたのか、妻が「話したいこと」とはなんだったのか。家福は周囲の大切な存在を失い、もはや解決できない幾つもの謎を抱え、それらから受けた傷を癒すことの出来ぬ人物として描かれる。家福が左目に緑内障を患い、視野に盲点があることは、彼がワーニャと同じく決定的な欠落を抱えていることを暗示している。

家福は言った。「僕らは二十年近く生活を共にしていたし、親密な夫婦であると同時に、信頼しあえる友だちであると思っていた。お互い何もかも正直に語り合っていると。少なくとも僕はそう思っていた。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。何と言えばいいんだろう……僕には致命的な盲点のようなものがあったのかもしれない」「盲点」と高槻は言った。「僕は彼女の中にある、何か大事なものを見落としていたのかもしれない。いや、目で見てはいても、実際にはそれが見えていなかったのかもしれない」
—『女のいない男たち (文春文庫)』所収「ドライブ・マイ・カー」村上春樹著

『ワーニャ伯父さん』は、失意のワーニャに対してソーニャが生活の末に訪れる救済を告げることによって幕を閉じるが、妻や娘の喪失、その存在の矛盾から解放されない家福には、ワーニャを演じることはできない。

そのことを示す象徴的なシーンは序盤に用意されている。家福が妻の不貞を目撃したのち、ある日妻から「夜に話がある」と告げられる。妻が自分に対して何を告げるのか、その内容を恐れる家福は帰宅することができず、彷徨うように車を運転する。ようやく自宅前に辿り着いた車のステレオからは、『ワーニャ伯父さん』のクライマックスにおけるソーニャの台詞が流れている。

「地上の悪という悪、あたしたちのこうした苦しみが慈悲の海に浸されて、その慈悲が全世界をおおい、あたしたちの生活がまるで愛撫のように穏やかな、やさしい、甘いものとなるのを目にするの。あたし信じているわ、そう、信じてるの……。(ハンカチでワーニャの涙を拭ってやる)かわいそうな、かわいそうなワーニャ伯父さん、泣いていらっしゃるのね……。(涙声になって)伯父さんは人生の喜びを味わうことはなかったのよね。でも、もう少しの辛抱、ワーニャ伯父さん、もう少しの辛抱よ……あたしたち、息がつけるんだわ……。(ワーニャを抱く)あたしたち、息がつけるようになるわ!」

—『ワーニャ伯父さん/三人姉妹 (光文社古典新訳文庫)』チェーホフ著

家福は自宅前の車中で、このセリフに聞き入りながら、自身の左目に目薬を射す。目薬は、目尻を流れ、家福の頬を伝う。この場面において、家福の頬を伝った目薬は単なる“涙”の暗示ではなく、“その涙が偽物である“ということを暗示しているはずだ。家福はこの段階において、真の意味で妻に向き合うことを拒んでいる。自分自身が心の底から傷つき、涙を流すことを回避する人間として、家福は描かれている。

(余談だが、本作の中には「ワーニャ伯父さん」以外にも、「ゴドーを待ちながら」が演じられる一幕がある。本作と「ゴドーを待ちながら」の間には、ある人物の不在こそが物語を牽引していく、という共通点が見出せるだろう。)

車という空間、テープという装置について

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作中、家福は車の中で、妻が朗読する「ワーニャ伯父さん」のカセットテープに合わせ演劇の稽古を行う。ワーニャの言葉に重ねられた家福の声は、今は亡き妻に向けられる。まるでテープの中の幽霊が、自身の秘密を語り始めるのを待つように。今はなき妻との交感の試みが、“巻き戻す“という行為が必ず伴う“カセットテープ”という装置によってなされることは、失った時間に囚われる家福の心情を強く反映している。(戯曲台本の朗読や、リハーサルといった“仕事”によって人物の回復を描く手法も限りなくチェーホフ的である。)

家福の他にも、車という空間において亡き者との交感を行う人物がいる。車のドライバーであるみさきである。

家福の車のドライバー・みさきにとってもまた、車中は特別な空間である。彼女の運転技術は、中学生の頃から札幌で水商売する母親を送り迎えすることで培われた。口数の少ないみさきにとって、車の運転それ自体が数少ない母とのコミニケーションの手段であったことは想像に難くない。彼女が運転中にとる所作は、彼女の母との対話を観客に想像させる契機ともなっている。

(上の映像は本作公開に合わせて公開された、石橋英子による劇伴。みさきが車を運転する様を3分半ほど、ノーカットで見ることができる。)

 原作において、家福が所持する車の車種は「黄色のサーブ 900コンバーティブル」であるが、映画の中では赤色のサーブ900ターボが用いられている。この変更についてはオープンカーでは同録が困難であるという実際的な事情に加え、車という空間が家福やみさきにとって今は亡き者との交感を図る特異な空間であることも関係しているはずである。「乗っていることを忘れてしまう」ほどのスムーズな運転によって、家福は妻との交感に没入する。この車は、現実に広がる空間からは隔絶した特異な空間であるが故に、閉じられていなければならない。赤い車は今作において、亡霊との交感の場として非常に重要な意味を担っている。

高槻という人間について

しかし、本作の中心人物・高槻の登場によって、車という空間がもつ“亡霊との交感の場“という意味が決定的に変容する。高槻は、妻がセックスの後に語る物語の続きを、車中で家福に物語る。

妻が語る物語とは、同級生の男子高生の家から何かを盗む代わりに、それとは分からぬ自分の痕跡を残す女子高生の話である。家福はこの物語を、女子高生が空き巣に入った男子高生の部屋で自慰をする最中、何者かの足音が2階に近づき、部屋の扉を開かれるところまで聞いている。

一方で高槻は、その話の続きを車中で家福に物語る。部屋の扉を開けたのは「もう一人の泥棒」であり、女子高生はその泥棒の“左目“にペンを突き立てる。怯んだ泥棒の体をペンで何度も刺し、部屋には男の死体が残る。それにも関わらず、翌日以降の男子高校生の様子には何の異変もない。変わったのはただ一つ、男子高校生の家の玄関に、防犯カメラが付いたことである。女子高生は、自分が犯した罪と向き合う必要があると感じ、一度は通り過ぎた防犯カメラに向かって、何度も口を動かす。「私が殺した、私が殺した」と。

高槻が語る物語は、家福が妻の不貞を目撃した状況と酷似している。また、女子高生が泥棒の左目を突き刺すという部分からは、ここで妻が家福を「もう一人の泥棒(罪人)」と重ねていることをはっきりと示しているだろう。つまり、妻・音は明らかに「家福が不貞を目撃したこと」を確信しており、物語の結末からは、「自分自身が犯した罪」、そしてまた「家福が犯している罪」を引き受けることが読み取れる。音は自分自身の行いが「世界を禍々しい何か」に変容させてしまったことを認め、それと向き合おうとしている。

妻・音から受け取った物語を家福に伝えた後に、高槻は以下のような言葉を続ける。

「僕の知る限り、家福さんの奥さんは本当に素敵な女性でした。もちろん僕が知っていることなんて、家福さんが彼女について知っていることの百分の一にも及ばないと思いますが、それでも僕は確信をもってそう思います。そんな素敵な人と二十年も一緒に暮らせたことを、家福さんは何はともあれ感謝しなくちゃいけない。僕は心からそう考えます。でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」
—『女のいない男たち (文春文庫)』所収「ドライブ・マイ・カー」村上春樹著

ここでの高槻の言葉は、原作とほとんど変化していない。にもかかわらず、「シェエラザード」「木野」「ドライブ・マイ・カー」という3つの原作を踏まえることで、映画でのこのセリフの意味は原作と全く異なる広がりを帯びている。妻という存在の謎、その存在や行動の不条理を嘆くだけでなく、自分自身の心を覗きこむこと。高槻は自分自身にも言い聞かせるような鬼気迫る語りによって、家福という人間に深い影響を及ぼす。(このシーンの岡田将生の演技は本当に素晴らしい。あまりにも素晴らしくて号泣してしまった。)私にはこの言葉は、本当に高槻が、岡田将生が、その両者が、心の底から喋っているようなものとしか思えなかった。本当に素晴らしい演技だったように思う。

これ以降、作品の中で“カセットテープ”が用いられることはない。また、家福が座る位置も後部座席から“助手席“へと変化していくことになる。高槻は本作において、車という空間が持つ意味を決定的に変容せしめる人間として機能している。

自他の境界(その揺らぎ)について

高槻の存在によって、家福は他者から自己にその眼差しを移す。

濱口竜介の作品群には、本作における家福の変容と共通した、「他者との境界(とその揺らぎ)に対する問題意識」が通奏低音として流れているように思われる。「ハッピーアワー」においては、鵜飼という謎の人物によって「重心ってなんだろう?」と題されたワークショップが行われるが、ここでは自分と他人の狭間において重心を探り合うという重要なモチーフの提示がある。その他にも、「PASSION」における「他者からの理不尽な暴力を許すことは可能か」という問題の提示、『The Depths』の冒頭における「眼差す自己」と「眼差される他者」の反転の暗示、「寝ても覚めても」における朝子の驚くべき変容など、今まで自明のものと思われていた主体と客体、その境界がぐらりと揺らぐ瞬間が、濱口竜介の作品では特に力点をおいて描写されてきた。

他者と自己の境界の揺らぎという問題は、今作においては、家福の生業である“演技“という観点から描写される。原作において、濱口監督がこれまで描いてきた問題意識と共鳴するであろう文章は散見される。

「彼とは本当の友だちになったのですか? それともあくまで演技だったんですか?」 家福はそれについて考えた。「両方だよ。その境目は僕自身にもだんだんわからなくなっていった。真剣に演技をするというのは、つまりそういうことだから」

—『女のいない男たち (文春文庫)』所収「ドライブ・マイ・カー」村上春樹著
「高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。それほどの演技ができる男ではない。家福は何も言わず、相手の目を覗き込んだ。高槻も今度は目を逸らさなかった。二人は長いあいだ相手の目をまっすぐ見つめていた。そしてお互いの瞳の中に、遠く離れた恒星のような輝きを認めあった。」

—『女のいない男たち (文春文庫)』所収「ドライブ・マイ・カー」村上春樹著

 映画の中盤のほとんどを、演劇のキャストによる本読み(濱口監督が「ハッピーアワー」以降取り入れている、感情を抜いてテクストをテクストのまま読み上げる手法)が占めているのは、これまで監督自身が取り組んできた「心からのものとして」響く言葉の追求が、本作の主題と密接に関わっていることの証左に他ならないだろう。本作の演出における非常にユニークな点は、家福が演出する「多言語演劇」である。日本語・韓国語・韓国手話を交えた演劇を繰り返し観ているうちに、観客は言語(とそれに伴う意味)だけに依拠しない、本当のコミュニケーションの様相を窺い知ることができる。エレーナ役のチャンとソーニャ役のユナの立ち稽古の場面において、多くの観客は「何かが起きている」様を、作中人物とともに体験するのではないかと思う。

演じる際に「恥を捨てる」ということは即ち「彼女は私ではない」と断じることだ。このとき、演者と役柄は切り分けられてしまう。そこでは演技にとって本質的なパラドクスが生きられない。目指されているのは、あくまで「彼女は私ではない。かつ、彼女は私でしかない」というこの不可能な両立を実践することだ。「自分が自分のまま、別の何かになる」と言ってもいい。それは当然起こり得ないのだが、万に一つ起こり得るとしたら、それは一つの場所において起こる。演者が自身の「最も深い恥」に出会う場だ。
ー『カメラの前で演じること(左右社)』濱口竜介著

ソーニャを演じるユナは、妊娠した子供を流産で亡くしている。そのような悲劇を演劇という行為によって乗り越え、「幸せ」を感じている。だからこそ、ユナの演技は「何かを起こす」。

高槻がワーニャを演じることができないのは、「自分はワーニャではない」という演者と役柄の切り分けへの葛藤に呑まれ、拡大する自我をコントロールすることができないからであろう。一方で、家福がワーニャを演じられないのは、「ワーニャの悲しみを背負えなくなった」という理由だけではないはずだ。家福がワーニャを真の意味で演じるためには、家福が本当の意味でワーニャの言葉を発するためには、家福自身が救済されなくてはならない。そしてその救済のためには、ワーニャがセレブリャコーフに引き金を引いたように、家福自身が自身の「最も深い恥」に出会うほかはないのだ。自らがワーニャを演じる他はないという瀬戸際に立ったとき、彼の車はみさきの生まれ故郷である北海道に向けて走ることになる。

「木野はその訪問が、自分が何より求めてきたことであり、同時に何より恐れてきたものであることをあらためて悟った。そう、両義的であるというのは結局のところ、両極の中間に空洞を抱え込むことなのだ。「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は噓だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。」

—『女のいない男たち (文春文庫)』所収「木野」村上春樹著

北へ向かう車は、(一切の音を排した無音の数秒を挟んだ後に)みさきの故郷に至る。「妻を殺した」という罪を抱える家福と、「母を殺した」という罪をもつ「みさき」が、「それでも、生きていかなければならない」という結論に辿り着く過程は、本作がワーニャ伯父さんをサブテクストとして扱っていることにより、より多層的な救済の描写として観客の胸を打っただろう。

ドライブ・マイ・カー

家福が、高槻が、みさきが辿り着く先については、映画の結末以上のことは言いようがない。この映画を観て、とにかく言えることは二つ。一つには本作のサブテクストである『ワーニャ伯父さん』の題が示すとおり、この物語はソーニャのものであったということ。二つには、私たちはそれぞれの車に乗って進み続けることしかできない、ということである。

家福と同じサーブ900ターボを運転するみさきがマスクを外す。その横顔を見た時、私たちも同時にまた、世界を慈悲が覆うのを目撃するはずである。

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