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わたしも、あなたも、何者でもないよ

生きたいわけでも死にたいわけでもない。ただ、生きている。

生きる意味を探しても答えは永遠に見つからない。というか「答え」などない。
でも考えるに値すると思う。

何故。

意識はコントロールできないということ。
今日食べたいものと明日食べたいものが違うように、夜食べようと思ってたものに対していざ夜になると食欲が湧かなくなるように私達はその変化を予測することはできない。


意識は水のように流動的でカタチを持たない。
絶えず自分の中を巡り、脳や胃や手足などのカタチをなぞる。掴めないし固有のカタチも無い。水槽とかコップに留めておくことはできるけど、やがて澱んでいく。
時間や環境が変われば考え方が変わるのもごく自然なことだ。

ただ、当時感じていた想いが存在していたのは確かだ。その想いを持って選択をし、今の自分がいる。
同じ轍は踏まないように過去を参照したくとも、脳は四次元ポケットでも底なし沼でもない。手を入れてもせいぜい肘くらいだろうか。

だから私は、その時々の意識を、想いを記憶から掘り起こせるよう、今持っている言葉で少しでも残しておこうと文字を綴る。
カタチの持たないものを拙い言葉で必死に擬える。

生きる意味を考えることは、変わっていく世の中で自分の存在を捉える行為なのだろうか。

今年の頭、鬱々とした気持ちが続く時期があった。
何者でもないことへの、焦り、不安。
鏡に写った自分の実体さえ認識できないほど溺れていた。

今の自分が顧みる。当時の私は、私の意識を他の誰かの器に注ごうとしていたんだと思う。それが足りなかったり溢れてしまったり、カタチが変だと思われるのが怖かったんだ。

今は。

自分も誰かも「存在している」という行為だけを感じるようになった。どんな状態であれ、そこにいる。生きている。
カタチに意識が向かなくなったし、「良い」とか「悪い」とかの言葉を使うことも減った。

目に見えないものを見ようともがくことが生きるということだろうか。
分からない、分からないからよく悩む。が、”はかれないものをはかる”ことも楽しいかもしれない。

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