論理的な正しさは屁理屈?
風が吹けば桶屋が儲かると思う人に対して,私は尊敬している。なぜかというと,極わずかな可能性をその人たちは信じているからだ。もちろん,私は風が吹けば桶屋が儲かると思わない。だが,可能性を否定しているわけではない。
これは誤謬だと言われるが,可能性は信じていいだろと言いたくなる。
他にもいろんな誤謬とか詭弁とか,いわゆる非論理な推論がたくさんある。これを私の周りには何とも思わないと感じる人が多いように思う。でも私は本当に気になってしまう。それは違うのにと。
しかしながら,いざ間違いを指摘しても「それは屁理屈だ」と返されて咎められる。「社会一般に認められているから正しい」とまで言ってしまう人も中にはいる。なぜこんなに"論理的な正しさ"よりも"社会的な正しさ"を重視しなければいけないのだろうか。
非論理な推論というのは思ったよりもありふれている。これは論理性に敏感になりすぎた私の錯覚かもしれないが,私の周りには非常に多い。
この間,私が何か空想をしていたときに,思わず笑みがこぼれた。何を空想していたのかは覚えてないのだが......そうすると,そこに居合わせた人が私に言った。
「嫌味か?」
「いやいやそんなつもりではないですよ?」とどう説明したらいいのかわからなくなって,空想してたって言うのもなんか変な感じだった。何もないのにニヤけてるって,変な人だなとは思うが......私の場合は何もなくないので変ではないのかな。
でも,後でよく考えてみた。すると,あの人は意外と非論理なんじゃないかと思った。確かにそうなのだ。その人の話を思い出してみると......嫌な思い出しか残ってなかった。あぁ言いすぎかもしれないな......
だから「嫌味か?」っていう発言も,早まった一般化の一種だったわけだ。
おそらく,そのときあの人は嫌な思いだったのだろう。そこで,私のニヤけた顔を見て,余計に嫌な思いになったのだろうと思う。私は悪くないだろ?だってあの人に何があったのかまったく知らないわけだから。といってもしかたがないのだが。
どこが早まった一般化かというと,嫌な思いを抱えたときに嫌な顔を見ると,その人は,大体の場合は事情を知っているからだ。少なくともあの人はそう解釈しただろう。
だから事情を知っていると私を解釈して,あの発言に至った。ということだな。
思い返せばほかにも,あの人から愚痴を聞いたときも,"みんなそうだ"とか"あの人はどうだ"とかそういう文句をたくさん聞いた記憶がある。何でもかんでも一般化するなー!
今さらだが,あの人を悪く言うつもりはない。ただ,"論理的な正しさ"もわきまえてほしいのだ!! せめて人に危害が及ばない程度に。
実はこの記事はある方のnoteを模倣して書きました。具体的な内容は違いますが。
今日は攻撃的になったかもしれませんが,話題が悪かった。話題が。(私も悪かったか......) ただ,私はわずかな可能性でも信じていたい。そんな人です。っていうこれも早まった一般化だな...... あーやっぱり私は非論理な人間ですね。
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