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空に咲く白い花【エッセイ】

夏の夜空に咲く大輪の白菊。その美しさに見入る人々の姿を見つめながら、嘉瀬誠次さんは安堵の表情を浮かべた。101歳の誕生日を迎えたばかりの彼の脳裏に、長い人生の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

1922年、新潟県長岡市の花火師の家に生まれた嘉瀬さん。14歳で父の元で花火づくりを始めた頃、彼の心は既に花火に魅了されていた。しかし、その夢は戦争によって中断されることとなる。

千島列島での兵役、そしてシベリアでの3年に及ぶ抑留生活。厳しい寒さの中、嘉瀬さんの心を温めたのは故郷の花火の記憶だった。

「いつか必ず、もう一度あの美しい花を咲かせるんだ」

その思いが、彼を生かし続けた。

帰国後、嘉瀬さんは花火づくりに全身全霊を捧げた。特に、戦後途絶えていた正三尺玉の復活に情熱を注いだ。幾度も失敗を重ねながらも、ついに1951年、戦後初の正三尺玉の打ち上げに成功。その瞬間の感動を、嘉瀬さんは生涯忘れることはなかったことだろう。

しかし、嘉瀬さんの心に最も深く刻まれているのは、1990年にロシアのハバロフスクで打ち上げた「白菊」だった。
長岡でも13年後の2003年、1488人が犠牲となった1945年の長岡空襲にあわせて、8月1日午後10時半に打ち上げ、以降毎年続けられている。
シベリアで亡くなった戦友への鎮魂の思いを込めたその花火は、長岡空襲の犠牲者を悼む象徴ともなる。

「花火には、人々の思いを乗せる力がある」

嘉瀬さんはそう信じ、技術の革新にも積極的に取り組んだ。コンピューター制御システムの導入など、伝統と革新のバランスを取りながら、長岡花火を世界に誇る花火大会へと育て上げた。

今、その遺志は息子の晃さんに受け継がれている。嘉瀬さんは静かに目を閉じた。耳に響くのは、遠くで鳴り響く花火の音。

「ああ、今年も白菊が咲いているんだな」

そう思いながら、嘉瀬さんは永遠の眠りについた。

彼の人生そのものが、一つの大きな花火だった。鮮やかに、力強く、そして人々の心に深い感動を残して散っていく。そんな花火のように、嘉瀬さんの生涯は、多くの人々の記憶に、永遠に輝き続けることだろう。​​​​​​​​​​​​​​​​

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