菩提心の称賛《宝珠の灯》第296偈
296)この菩提心に慣れれば、
それが罪悪を捨て去らぬことがあろうか。
それが善行をなさぬことがあろうか。
喜んで、ことさらに修習したまえ。
「慣れる」とは、
敢えて何度も何度も修することで
当たり前になった状態をさす。
チベット語では
「修習する sgom 」という他動詞を経て、
「(修習に)慣れる sgoms 」という自動詞になる。
菩提心も
瞑想で敢えて修習する段階から
自然にそれに慣れた状態へ
アップグレードする。
ただそうなったからといって、
何もせずに放っておいたら衰えていく。
ある先生から聴いた話。
「深く瞑想に入ると有名なチベット人の修行者がいた。
彼は、瞑想中の脳波を調べるためにアメリカの大学から召喚されて、実際に脳波の変化をデータとして示した。
しかし帰国後、長く生きることなく亡くなった。
彼は『菩提心の修行が足りなかった。菩提心を発す時には一生懸命瞑想したけれど、後になってからは余り気にしなくなっていた。』
と言っていたそうだ。
だから菩提心は最初だけではなく、
修行の途中でも大切だ。」
菩提心がある無しのみが
生き死にを決めた訳ではないと思うけれど、
一つの条件に
なっていたのだろうか。
どんなことも
熱中している時は上手くできるし、
飽きてやらなくなると段々下手になる。
目的に到達するために必要なら
やり続けた方が得。
やり続けるなら
利益になる部分を見つけて
喜んでやった方が
全然楽だし
日々が幸せになる。
悪いことをしなくなり、
善いことをしていると、
自然に幸せになれるのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?