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他空派の宗論 13

第三項[二諦の構成を説く]において、[世俗諦][勝義諦][同一か別か][他に派生して説く]の四より、

第一項[世俗諦]において、[定義][言葉の説明][異音同義語][分類]の四より、

第一項[定義]
「意識と智慧のニより、心所と共にある意識の対象であり、あり方において自らの本質は実在が欠如している法(現象)」が、世俗諦の定義。具体的な例は、依他起と遍計所執のニつに含められた全ての法(現象)である。

第二項[言葉の説明]
勝義の法性より他の諸々の現象は、法界のありさまを正しく見ることを覆い遮るものなので「世俗諦」という。

第三項[異音同義語]
世俗諦、名付けられた真実、偽りの法、欺く法、現れとあり方が合致しない法、などが同義である。

第四項[分類]において、[誤世俗]と[正世俗]のニより、

第一項[誤世俗]
「自らが明らかに映る心に、映っているように働きをなすことができず、世間において嘘であると公認されている法(現象)」が、誤世俗の定義。具体的な例は、水面に映った月や、蜃気楼・逃げ水のようなものである。

第二項[正世俗]
「自らが明らかに映る心に、映っているように働きをなすことができ、世間においても欺かないと公認されている法(現象)」が、正世俗の定義。具体的な例は、五感の対象となる形あるものなどである。

「ニ諦」は漢訳の言葉で、
チベット語直訳では
「二つの真実(bden pa gnyis)」となる。

仏教用語では真実に
「諦」という語を当てるが、
「諦」の第一の意味は
明らか。つまびらかにする。明らかにする。

普段使っている「諦」の意味とは感じが異なる。
「諦める」の意味も、本来は「思いきる」の意味であるそうだ。(新漢語林より)

「二諦」は存在するものを二つに分類する時に使われる言葉で、
究極の真実である「勝義諦」と、
究極ではない真実の「世俗諦」に分かれる。

究極の真実とは
ものごとの究極のあり方で、
空性、法性、法界、真如などと
同義である。

究極でない真実、というよりものごとは、
勝義以外の、存在するもの全てが当てはまる。

本論では、究極ではない真実「世俗諦」が
先に説明される。

その定義には、世俗がまず、
主客二元をもつ意識の対象であると説く。

他空を説く、特に二諦を説明する場合、
「意識」と「智慧」という言葉の意味を
把握しておかなければならない。

「智慧」は、空性、法界と不別の主客二元のない智慧。
「意識」は、空性と不別ではない主客二元のある意識である。

世俗諦は、第一条件として「主客二元の心に映る」ということがあげられる。

そのあり方は、
本質において実在していない。

それに対して、勝義諦は、
本質において実在していると
後にでてくる。

依他起(えたき)と遍計所執(へんげしょしゅう)は、
他空派の宗論②を参照。https://note.com/dechenblog/n/n0e1779050daf

「心所」とは、
喜怒哀楽の感情や
一時的な心理作用をさす。


さて、世俗諦には
われわれの心に映るように働きをなすもの(正世俗)と、
働きをなさないもの(誤世俗)がある。

水面に映った月は、
月の働きをなさない。(誤世俗)

けれど、
誤世俗の例と、正世俗の例は、
相反するものではない。

水面に映った月は
月の働きをなさないけれど、
水面に映った月の働きをなす。

さらに、
水面に映った月を見て、
われわれを取り囲むものごと、世界は、
われわれの心に映っている映像だと
気づく人もいる。

そこから踏み込んで、
これが本来の、
究極のあり方なのだろうかと
考える人もいる。

そう考えると
世界はヒントに溢れているものだ。

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