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他空派の宗論⑤

第ニ項[自派の特性]において、[究極の基を認識する][その基が自他全てにあると示す][まさしくそれが、輪廻と涅槃全ての基であると示す][基である如来蔵そのものが、九定義を具えると示す]と四より、

第一項[究極の基を認識する]は、
勝義の法界そのものとは、原初よりいかなる過失欠陥もついたことがなく、勝義の全ての功徳(良質)が原初より自ずと完成しており、自ら自然に起こった智慧の心そのものが、本性として光明である如来蔵であり、まさしく全ての有情の意識にあまねくとどまるものである。

第ニ項[その基が自他全てにあると示す]において、[経典の引用]と[論書の引用]のニより、

第一項[経典の引用]は、
『如来蔵経』より、「種姓の子らよ。そのごとく、一切有情の執着する作意、家庭人のようになった下には、力あり、不滅で、混じりけのない、全ての仏法の大宝蔵である如来蔵があるけれど」などや、
他にも『大涅槃経』や『無常相へ入る陀羅尼』など大乗の多くの経部より、一切有情の心の本性は、一時的な汚れの管中に、全ての功徳を具えた勝義の仏陀の法身として有ると、再々説かれた。

第ニ項[論書の引用]は、
『大乗究竟一乗宝性論』より、「かくも、貧しき人は家の中の地面の下に、尽きることのない宝があるけれど」などによって、貧しい家の下に宝があるように、一切有情の意識の中に入った心そのものである、埋蔵された宝のような、本性として光明である智慧があるさまを詳細に説かれている。
他にも『菩薩地』など無着師弟が著された多くのサンスクリットテキストにおいて、明らかにそれに合致して説かれた説は、あまりにも多い。

[経典からの引用]の中で
「管中」と記されているが、
管とはストローのようなもの。

固い管(一時的な汚れ)の中に、

すべての衆生の心の本性が
全ての良質を具えた
究極の仏陀の法身としてあると
書かれている。


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