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他空派の宗論 12

第二項[それについて誤った考えを捨て去る]
勝義の法界は自らの本質において断・証の功徳が完成している状態である。それも、汚れが原初から本性として浄化されている勝義の究極の「断」と、それぞれに自らを知覚する自然の智慧である勝義の究極の「証」の二つが、初めから自ずとあると解釈する。
そうではなく、勝義の法界を、(勝義に対して)世俗である(以前にないものが)新しく起こった究極の断・証であると解釈して、全ての有情は(自らの本質ではない)他から起こった仏陀になると捉える誤った考えが生じてはいけない。
或る者は、資量を積んでいない仏陀は不合理であるという。しかし「全てが概念的な資量(徳)」と「様相に名付けられた資量(徳)」については、新しく積まれることなく初めから得ていたことが無いとしても、法性の資量(徳)は原初から自ずと完全であることは、非常に合理である。

「断・証」は漢語訳になる(蔵漢大辞典より)。

「断」とは
何かを断った、捨て去った功徳。
修行を続ける階梯で
煩悩や悪業を捨て去れば
断の功徳を得る。

「証」とは
何かを悟った、了解した功徳。
無常や空性を悟る智慧を得れば、
証の功徳を得る。

勝義の法界は、
もともと全て(断と証)の功徳が
完成した形でそなわっている。

なので、
以前にないものを
努力して新しく得るものではない。

今ここにないものを
原因や条件を整えて得るとしたら、
それは今の自分ではない
他を得ることになる。

全ての心をもつ者は、
もともと持ってる仏性を顕現させることで
仏陀になるという
解釈もできる。

もちろんそんなことを言うと、
「そんなら皆んな最初から仏陀やん。
修行しないで仏陀になれるわけないやん」
とツッコミが入るわけだが、

それに対する返答が、

仏陀になるために積まなければならない徳
(資量)
は二種類あり、

そのうちの一つ
随増性(他空派の宗論 ⑩ 参照)は
https://note.com/dechenblog/n/ndbac19d8f043

最初は無かった徳が新しく積まれることで
仏陀になる因となるけれど、

自性住仏性(法性)が
「原初から自ずと完全であることは、
非常に合理である。」

ここで「全てが概念的な資量(徳)」と
「様相に名付けられた資量(徳)」は、
随増性に含まれる。


さて、
「全てが概念的な資量(徳)」と「様相に名付けられた資量(徳)」という言葉は、
(ゲルク派においては)あまり聴かない言葉である。

個人的な考察になるけれど、
「全てが概念的な資量(徳)」とは
煩悩を断ち、煩悩から離れた徳など、
事物ではない(概念的に捉えられる)資量(徳)。

「様相に名付けられた資量(徳)」とは、
布施をしたり戒律を守って得た徳など、
原因(布施や持戒など)の結果として得る
特定の様相に名付けられた
事物となる資量(徳)。

或いは
主客二元の世俗の世界で見える
様相に名前をつけたことで成り立っている資量(徳)。

これら二つの言葉を
あなたはどう感じるだろうか。

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