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「聞いたことがある」と思っていたADHDは自分の中にあった。

2023年の春、私は長いこと続けていた仕事から新しい分野の仕事に就きたいと考え職業訓練を受けていた。それまで毎日たくさんのお客が出入りしていた地元の食品販売店を離れ、密かに自分がやってみたいと考えていた通販のPRができる仕事を夢見て、無謀にも全く異なった世界へと飛び込もうとした。

食品販売の仕事は、もうかれこれ10年以上続けていた。しかしその中では同僚から理不尽に仕事を押し付けられることや、同時に頼まれる仕事が増えすぎるとストレスから体調を崩すことが多く、職場を変えることが何度かあった。休日はストレス発散のために趣味の絵を描いたり、ハンドメイドの研究をしたりしていくうちに、そういった作家を紹介した通販サイトに興味がわき、ゆっくりと時間をかけてどんな仕組みかを知りたくなっていった。
不特定多数の商品を売るのではなく、世の中のモノづくりを「送り出す」役割を自分もできたら・・・という気持ちがすべての始まりだった。

職業訓練は、簡単な面接のみの審査だった。幸か不幸か筆記試験がなかったのだ。その代わり、というのだろうか。パソコンのローマ字打ちがやっとの私に面接を担当した訓練校の講師の質問は厳しかった。
本来なら若手の人材からどんどん育てたい業界であるだけでなく、未経験が不利になる職種の一つであること、加えてパソコンの知識もほとんどなかった私に、訓練機関の間にほかの生徒に追いつく努力はできますか?という気持ちがくみ取れる質問がほとんどだった。
その張り詰めた空気に圧迫され、自分が何を答えたかは覚えていないほど緊張していた。それでも今の自分を変えたかった。ただそれだけを必死に伝えたように思う。
その日ほかにも面接に来ていた人たちは、皆スーツがとても様になっていて、離れた場所からでもはっきりと受け答えした人たちの声が聞こえてきた。その雰囲気からすっかり自信をなくし、自分はもうきっと関わることはないだろうな、そう思いまっすぐ帰宅していち早く息苦しいスーツを着替えた。

しかし後日届けられた合格通知は、まさかの「合格」だった。
正直どうして合格できたかなんて分からない。
頭の中で何度も回想した面接のシーンでは、そんな雰囲気は自分から感じられなかった。それでも合格をした。やや混乱しつつも、押し流されるように私は通学の準備を始めた。

開校式も無事に済み翌日から授業が始まると、毎日のように触っていたバーコードリーダーとPOSレジは学校に備え付けられた、WEBサイトの仕組みを勉強するためのデスクトップ型のパソコンに代わり、不規則だったシフトから毎日決まった時間の電車に乗り通学して、見慣れない教科書やパソコン画面に浮き上がるタグやコードと必死ににらめっこをした。
WEBサイトの知識がすでにある経験者の人たちも交えられた授業で、自分がその流れに乗っていくのは、想像以上に過酷だった。
とにかく専門用語を一つでも覚えようと、電車でも帰宅後でも勉強の毎日だった。

ほかの生徒に追いつけるほどの努力ができたかはともかく、自分なりに学んでいけるのはとてもやりがいがあり楽しかった。・・・・いくつかの違和感や疑問を除けば、である。
授業が始まってすぐに気づいた違和感の一つめは、周囲のタイピングの音がとても大きく恐怖感があったこと。遅れていく自分のタイピングに不安が募るばかりで、目の前のことも頭が真っ白になってしまい落ち着いて対応できないことが多かった。
二つめは数字の認識がとてもせまく、どんなに頑張っても視界に入っていかないこと。データ作成に必要なグラフなどがほとんどと言っていいほどできなかった。
三つめは、得意なことのふり幅が大きかったこと。
画像編集などのソフトは独学でもある程度使うことができ、そこはうまく切り抜けられるも、講師の指示をいくつか見落としたりしていた。

これは明らかに、自分はここにいる人たちよりも綿密な訓練が必要なのだと自分でも感じた。その時に頭に浮かんだのは、これまで仕事をふられたときに自分で順序が立てられないことや、自分がどこまでタスクを持てるかが全く考えられなかったことなど、いろいろなことが鎖状につながって出てきてしまい、もしかしたら自分は、これからの就職で支障をきたすような何か障害があるのかも・・・そう思い、通っていた心療内科で発達障害の検査を受けることにした。
できることなら、次の仕事で何かしら役に立つことや対策を知っていきたかったからだ。

ただでさえ授業と課題で忙しいのに、半ば無理やり検査の日程を組み込んでいった。自分を疑う気持ちが芽生えたら、いてもたってもいられなかった。
検査の種類は血液検査やいくつかのペーパーテストと、パソコンので行うもので、おおまかに4種類ほどだった。2週間おきに検査をして、結果は次の来診で内容を書かれた紙を渡され、診察で正式に障害の名前を伝えてもらう形だった。結果は不注意型のADHD。それも、ほとんど重度というものだった。ADHDの名前自体は、10年くらいからメディアでよく目にしていた。けれどそのときに聞く症状は自分に当てはまったものではなく、世の中には大変なハンデを持った人たちがいるんだなあ、というくらいの感想だった。

次第により詳しい、繊細な違いまで発達障害について見かけるようになると、だんだん幼少期の自分によく似た事例を目にするようになった。じっとしていられない、水や服のタグの感触に苦痛を感じたり、予期せぬことが起きるとパニックに陥ったりなど。でもそれは、ほとんど克服できていたので、重度なんて絶対にないと考えていた。

なんとなく、そう、ぼんやりと「もしかしたら」という気持ちはあった。
どちらかというと幼少期は自閉症スペクトラムに近かったように自分では思っていて、せいぜい後遺症のようなものかな、なんて呑気に考えていた。
それが自分でも気づかないくらいに、こんなにもくっきりと日常に痕を残していた。
外に出て電車に乗れば、人の声や電車の走行音、離れた席の人たちの声、注意書きのようなホームの黄色い線、改札の行き来で見かけるエスカレーターは、足もとを見ればチカチカして、踏み外しそうでとても怖い。
視覚と聴覚が人よりとても敏感だったのだ。
それが頭の中の情報を整理できていないということに、まるで気づかないまま今日まで来てしまった。常に言葉にできない苦痛で満たされていて、水中から抜け出せないような圧迫感が私を苦しめていた。

検査を決意したときから、どんな結果でも受け入れる覚悟はできていた。
ずっとちぐはぐだった自分自身のパーツが少しずつ噛み合っていくようだった。何よりもおそらく人から見たら変わって見えていたのだろう私の数字の奇妙な見え方や、指示など大切な場面で言葉を頭に入れられない自分のワーキングメモリーの少なさを、自分の努力不足なわけではなかったことに安心をした。

今では時々、YouTubeなどで同じような人たちの体験談を見たりしながら自分も日常の工夫を始めている。
投薬治療も始まり、飲み始めてから3週間ほど経っている。目安としては一カ月は経たないと効果は薄いと言われているストラテラを飲んでいる。
早いかもしれないけれど、私自身はもう良いほうへ効果を感じることができている。
まずは一番きつかった電車での移動のとき、あれほどイヤホンがないと外の音が不快だったのに、先日の長距離移動でもほとんどイヤホンをせずに過ごせたこと。
そして少しずつ昼間の活動がしやすくなっている。本来ストラテラは衝動性を抑えるのでノルアドレナリンの効果を促すのだが、活発になるというよりかは細かいことで注意力が散漫になるのを防ぐため、家事の順序立てがうまくいき、結果私の場合は薬を飲んだほうが動けることにも気づいた。
最後は、頭の中の連想ゲームのような思考が少しずつ切り替えができるようになり、ずっとしゃべり続けるということがなくなった、と言われたこと。
朝の25g一回でこれだけでも大きい進歩のように思える。
ただ、逆に服薬前の自分を想像するとかなりやっぱりひどかったのでは・・・という怖さも同時に出てくる。そこは正直あまり考えないようにしている。考えると落ち込むので・・・。
昼間の体のだるさは、あらゆる手を尽くして改善を試みてきた。
だけどどんなに頑張っても夜の寝つきが悪く、加えて思考の無限ループで疲れやすさもあり、ずっとぐったりしていた。
白湯をのむ、朝ごはんの時間を一定にする、適度な運動、リラックスアロマ、カモミールなどの紅茶、癒し系の映画や読書。どれも続きはしなかった。それがこんなにすっきりした頭で過ごせるのだからびっくりである。
改めて自分は本当にADHDだったのだと実感している。

職業訓練は、なんとか卒業することができた。
本当に大変だったけど、最後は自分の得意なことも分かり、充実した時間だった。
現在はまだ仕事を探していて、このままクローズ就労をするのかを検討していて、薬の効果と合わせて担当の医師と話し合っていこうと考えている。

慣れないなりに私もここで自身の体験などを描いていこうと思うので、ささやかながら、誰かの役に立てたらいいな・・・と。

そして面白いことに、自分がADHDと受け入れてからのほうが制作が楽しかったりしています。
記事をお休みしている間にも作品が少しできているので、次回はそちらのお話も。

それでは次回の更新でお会いできますように。


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