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あなたにとって「寂しい」という言葉は、どんな色ですか?

見えない気持ちに隠された色

一昨日からずっと気持ちが沈んでいて、いっこうに立つ気力が湧かない、そんな日が私にもある。気候もあってか耳鳴りもひどい。本屋ではいつもなら胸が躍るような作家の新作にも、どこか上の空だ。
不思議なもので、頭では分かっていても不快な気持ちにいったん蓋をしてしまうと、どんどん自分の限界が溢れていくのが見えなくなってしまう。
今の私にとって、そんな風に目をそらしたくなるもの・・・気づけば後回しにしがちな家事だったり、コンビニに行けば済んでしまうような些細な支払いだったりする。
あれもこれも目をそらすから、少しずつおかしくなる。
一体どうしてそんなに逃げたくなるのか、何から逃げたくなるのだろうか?私は考えてみることにした。
鎖状につながった厄介な感情には、一番の根元に大きな鉤がある。その鉤で引っかけられた心の中には嫌な痛みがある。その鉤を取り除きたいと考えた私は、痛みの場所を探っていくことにした。
痛みを探すことにも、また別の痛みを伴う。過去の経験から何が原因かを見つけるには、そのものの記憶を辿るからだ。だからこそ見つけるまでにすごく時間がかかる。だけど、それをせずにはいられない時が、私には時折こうしてやってくるのだ。

頑張って起き上がって、洗濯をしてみる。好きなお菓子を食べてみる。気が済むまでだらだらしてみる・・・解決しそうかな?といったん上向きな気持ちになることもある。それであっさり立ち直ることもあれば、そうもいかない時もある。
二日間どっぷり落ち込んだ後で、これはどうにもならないと悟った私は、気分転換を兼ねて夕飯の買い出しへ行くことにした。
夏の訪れを感じさせる暑さが少しずつ増えて、それを穏やかに制するような冷たい風が心地よく肌に纏うと、家から一歩踏み出した途端の世界の違いに驚きを感じる。
外では広場で近所の子供たちがボール遊びをしていて、ふいに自分の子供時代を季節の匂いとともに思い出させる。そうだ、帰ったら読みかけて止まっていた本を読もう。帰宅後に私が手に取ったのは、「虹の岬の喫茶店」という小説だった。

岬のはじにポツンと建てられた手作りの木造の喫茶店には、毎年サーフィンや釣りで訪れる常連客だけではなく、ふとしたきっかけで人生の岐路に立たされた人たちが憩いの店として出会っていく。
今の私にとって大きかった一章は、妻を亡くした主人公の男性が幼い娘と気晴らしの時間を過ごそうと、「今日は娘の決めた道だけを走る」というルールを作って気ままにドライブをする。そして最後にこの喫茶店を訪れるという話だった。
喫茶店を営んでいる初老の女性はどんなお客様にも親しみと慈しみを持ってコーヒーを出し、来る人の心を紡ぐように癒していく。
主人公の男性が愛しそうに女の子を抱き上げる光景や、無邪気に甘える女の子の仕草は、幼い時に私が見た父と自分の姿そのものだった。読み進めるほどにおいしいコーヒーの味がこちらの口の中にも伝わってくるようで、それが心にも満ちていくような物語だった。

作中に出てきた「藍色」という言葉に救われる

この小説では男性と娘である女の子とのドライブで、トンネルを抜けると海が見えてくる場面がある。燦々と照る太陽の下で、予期せぬ海への寄り道にはしゃぐ女の子とは裏腹に、深い藍色のコントラストが読んでいる自分にも伝わってくる。
その時にふいに、私の感情の根元で引っかかっている鉤に気づく。その藍色は、まさに私が感じていた根っこの感情そのままの色だったからだ。

日常に潜む「藍色」の感情

父は生きていれば70代後半頃なのだが、母曰くこの年代の男性にしては、娘にとても子煩悩だったそうだ。それが私の思春期を境に小さなことから喧嘩をして、そのまま滅多に会話をしなくなってしまった。仲直りらしい仲直りもできないまま父は病を患い、翌年に見送った。当時24歳だった私の中には、くっきりと父への罪悪感が残った。その罪悪感を消化できないまま、10年後に今度は母を見送ることになる。
母の見送り後、初めてこの家に残された母の香りの多さを知った。
母の作った料理、洗濯してくれた服、洗い物をしてくれたキッチン、毎朝あげていたお線香、母のエプロン。
そこには隣に佇む父の顔も見てとれるようだった。そのことを思うたびに、心の中が「藍色」でいっぱいになっていくのだった。
私にはずっと、それがなんていう名前の気持ちかが分からずにいた。この本を読んで気づいたのは、私にとって藍色の気持ちはただ「寂しい」という気持ちに他ならなかった。父がいる時に気づけなかった優しさを、母を通して改めて見ていくと、感情の揺れはとても大きかった。母を送り出して3年ほど経ち、少しずつ落ち着いてきたように思えたが、それは忙しい毎日のせいで「寂しい」という気持ちを取り除けたと思い込んでいただけだった。

私と両親の一番古い記憶は、おそらく幼少期に住んでいた団地の近くにある公園で遊んでいる光景だ。雲一つない晴れた空で、まだ春には少し冷たい風が吹いていた。その風から守るように、母は着ていたスプリングコートの中へ私を包み込んだ。幼かった私には、そのコートの中はどこよりも特別な場所のように思えた。父はそんな母と私を見ては、楽しそうにいつも笑っていた。これ以上ないほどの幸せな家族だった。
幸せな思い出が再びよみがえるほど、青の色は深みを増していく。いろいろな感情と混ざり合い、いつしか青だけには見えない様々な濃淡が出来上がっていく。それはゆっくりと藍色の感情となって、少しずつ生活の中に溶かされていくのだ。

母を見送ってからしばらくして、私は結婚をした。
新しい生活が始まり、仕事も楽しく充実していた。少しずつ楽しさで埋まっていく日常に、寂しいという気持ちが隠れていたなんて思いもしなかった。
寂しさを解決するには、子供のように涙がこみあげて、それを消化しないといけないのだとも思っていた。そこまでの気持ちの高ぶりなど、大人になったらそうそうあるわけでもない。そう信じ込んでいた。

大事なのは寂しさを取り除くことではなく、形を変えてずっとそこにあるという事実に気づけること

大人になったら、いつか寂しさは消えると思っていた。
子供の頃に感じた母のコートの温かさや、私の手をひく大きな父の手のぬくもりは、いつの間にか私の記憶からも遠のいていた。新しい生活が始まって、好きな人と過ごせるなら私の寂しさも消せるのだと思い込んでいた。そうしなければ両親へも申し訳ないような気がしていたのだ。
けれど結局は自分の結婚生活に、両親の結婚を思いはせて重ねてしまうのだった。母はこんな風に料理を楽しめたかな?母を車で連れ出す父は幸せだっただろうか。そんな会話をもう一度3人でしてみたかった。

新しい生活が始まれば新しい色が増えて、藍色がまたひとつ変わるのだ。その色が私の人生の色を示してくれているのだとようやく思い始める。
後回しにしがちな家事も、近所のコンビニで済ませられるような支払いも、母はいつもめんどくさがらずにこなしていたように思えて、それが嫌になることもある。考えてみれば、それも寂しさの一部だったのかもしれない。そうやって、みるみるうちに感情は形を変える。藍色も変わっていくように。
途端に悩んでいたことが、とても小さいことだと感じる。まだまだ自分は未熟なのだ。そう思えば自然と、心に吹き抜けができていくのが分かった。
ずっと言葉にできなかった気持ちに色がついた。それだけで今の私には嬉しいことなのだ。これからは痛みを探すのではなく、色を探していこう。そのほうがきっと楽しい。
もう私にとっての「寂しい」という根っこの気持ちは痛みではない。それは私の日常の色なのだ。
新しい色を探すのに、花を飾るのもいいな。朝晩はまだ涼しいこの部屋には、明るい黄色の花がきっと似合う。そう思った私はその日、夕暮れの明るいうちに出掛けようとソファから立ち上がる。
ちょうど最近見つけたお気に入りの花屋がある。以前足を運んだ時には、鮮やかな彩りのベゴニアがあった。その中でも凛と輝いていた黄色のベゴニア、まだ残ってるといいな。
鞄を肩にかけ、玄関のカギを閉める。その音は、本を読む前の私にさよならを告げているようだった。


#創作大賞2023 #エッセイ部門

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