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(第1回)デヴィッド・ボウイが泣いた庭

 観光地はたのしくなければならない。これはわたしの考えだ。

 なにもえらそうに言うのではない。その「たのしさ」はひとそれぞれあっていい。「食」だけの旅、爆買い旅行、旅程の大半をおしゃべりに費やす旅。家族や仲間との他愛のない時間に「たのしさ」を感じるひともいれば、ひとりだけの時間をゆっくりと味わうことに「たのしさ」を見出すひともいる。

美しい自然をたのしいと感じるひともいれば、ただの野っ原の物語に思いを馳せるひともいる。いまちょっとだけ話題の「ダークツーリズム」(被災地跡や戦争の跡地など、人類の死や悲しみを対象にした観光)なんていうのも、あるひとにとっては、それはそれでひとつのたのしみなのだろうと思う。

 「たのしい観光地」。

私がこのことを強調したいのは、住み慣れた土地から、わざわざある別の場所を訪れるということは、そのたのしさを持ち帰って、翌日からのなんらかの「糧」にする。そういう一連の流れが古今東西の「観光」の基本的なことだということを再認識したいからである。

 先日、BS番組でこんなシーンを見かけた。役者・船越英二郎氏が、京都・天龍寺の住職に「この庭の見どころはどこにあるのですか?」と聞いた。すると住職は船越の胸のあたりを手のひらで軽く叩き「ここにあるのです」と指し示した。次に住職は、作庭家・夢窓疎石のことば「山水に得失なし 得失は人の心にあり」(庭に良いも悪いもなく、それは心のあり方次第である)を紹介し、「観光とは、心の光を観に行くこと。それが禅の心です」と説いた。

 心の光を観に行くことにした。

 私はある日、京都・西賀茂にある「正伝寺」(正伝護国禅寺)を訪れた。新聞のコラムで、先日亡くなったロックスター、デヴィッド・ボウイが、正伝寺の庭園を観て泣いた」という記事を読んだからだ。

 デヴィッド・ボウイは1979年12月、テレビCM(宝焼酎「純」)の撮影で京都を訪れた。記事によると、撮影場所として正伝寺を指定したのは京都通のデヴィッド・ボウイで、彼は静寂に包まれた庭園を前にし、撮影中、目に涙を浮かべていたという。(日本経済新聞より)

 小堀遠州作とされる正伝寺の庭園は、皐月の刈り込みで(こどもの成長を祝う)「七・五・三」を表す枯山水の庭である。別名「獅子の児渡し」(植栽の間を獅子の親子が渡っているように見える)と呼ばれ、遠くには比叡山の借景が見える。

 私もまた、庭の前に佇む。風の音と鳥の声。少しずつ日が暮れていく。デヴィッド・ボウイは、この庭の「静寂」をとても気に入っていたという。

 彼の目には何が映っていたのだろうか。

 我々はちゃんとこの庭を観て、涙を流すことができるのだろうか。いや、必ずしも泣かなくてもいい。この庭からなんらかの「たのしさ」を見つけ出し、ちゃんと明日からの糧にしていけているのだろうか。

 遠くから庭を掃く音が聞こえる。ここは時間が止まっているようで、確実に動いている。

 「静寂が気持ちいい」「借景がきれいだ」「おなかがすいたな。さあ、おいしい夕食に出かけよう」。観光とは用意されるだけのものではなく、自分から感じ取っていくもの。いま、みんなが注目している「たのしい観光地」のつくりかた。それは、場所の物語を知り、いまの物語へと変換させていく作業だ。

 やはり、庭を見て泣くには、世界的なロックスターほどの感受性はないらしい。だが、無理に泣くことはない。泣くのは次回にとっておく。

〜2016年7月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂


【正伝寺】(吉祥山正伝護国禅寺)京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
創建は1268年。臨済宗南禅寺派。本尊は釈迦如来。廊下の天井は「血天井」と称され、伏見城落城の際に自刃した鳥居元忠らの血痕が残った廊下の板を用いたとされている。

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