見出し画像

(第9回) 有楽町で逢いましょう

 重低音が身体の芯まで響いてくる「ボディソニック」というオーディオシステムがあるが、フランク永井が歌った重低音は、昭和のこどもたちにとって、まさにボディソニック級の衝撃であった。

 『有楽町で逢いましょう』は昭和32年の歌である。高度経済成長期のお茶の間では、懐かしのメロディとしてよく流れていた。ああ、おとなになるって、こういう「ムーディーな」おじさんになるのだなと、その白い背広姿をぼーっと眺めていたような印象がある。

 『有楽町で逢いましょう』は、大手デパートの大阪そごうが有楽町へ進出する際の宣伝キャンペーンから生まれたというのは、有名な話だ。

 有楽町は、かつて東京都庁や朝日新聞社があった「おやじの街」だった。横丁の飲み屋街も充実し、ブンヤやネクタイ族が猛烈な仕事量をこなし、浴びるように酒を飲みながら気勢を上げる、そんな街だった。

 それを、おしゃれなウィンドウショッピングやデートが似合う「垢抜けた街」へと変える。それが「有楽町で逢いましょう」キャンペーンである。

 大阪から新たに進出した「有楽町そごう」は、現在ビックカメラがある場所にあった。8階にあった日本テレビのスタジオで「有楽町で逢いましょう」という同名の歌番組の収録を開始。その会場は、現在のよみうりホールへとつながっている。余談であるが、私の初めてのコンサート・デートは、このよみうりホールである。当時大人気だったジャズ・フュージョンのギタリスト、ラリー・カールトンのライブを、父親の背広を借りた田舎の高校生が電車に乗ってもたもたとやってきた。有楽町と言っても、ライブ後はどこへ行っていいか皆目見当もつかない。高校二年生の時の甘じょっぱいデートの思い出である。

 先日、有楽町を訪れた。『有楽町で逢いましょう』の歌碑があった。大都会の喧騒に隠れ、ほとんどその存在は目立たない。少し有楽町を歩いた。

 老舗の映画館、有楽町スバル座は70年代には、『アメリカン・グラフィティ』や『イージーライダー』などのアメリカン・ニューシネマやこどもたちに人気のスヌーピー作品などが盛んに上映された思い出の劇場だ。

 日比谷方面に目を向けると、文明開化の中心となった帝国ホテルがある。有楽町から向かう途上にある、吉行淳之介や池波正太郎に愛された老舗中華料理店「慶楽」がいまだ健在である。牡蠣油焼きそば(吉行)、肉もやし炒飯(池波)がそれぞれのお気に入りらしい。店内は観光客で賑わっていた。(2018年に閉店)

 「ビルのほとりのティールーム」と歌われた。有楽町のカフェと言えば、交通会館の階上にある回転レストラン「東京會舘スカイラウンジ」が外せない。有楽町のみならず都心部を一望できるこのカフェは、当時人気のデートスポットだった。この東京會舘自体が、有楽町の「おやじ文化」を象徴していた「寿司屋横丁」の跡地に建てられたものだった。交通会館はいまでも東京都のパスポート発行施設などが入っており、地方のアンテナショップなどで、古く渋い建物にもかかわらず、あいかわらずの賑わいを見せている。

 なんでも、『有楽町で逢いましょう』で響いたムーディーな歌声は、従来の囃し立てるような民謡調の高音から、BGMになり話し声の邪魔にならないような「ささやき系」の低音へと、最初から意識してプロデュースされたそうだ。

 ペニンシュラホテルや最近オープンのミッドタウン日比谷など、最先端も顔を覗かせる「オールドタウン」有楽町。何度となくここで逢った恋人たちの、思い出が街いっぱいに詰まっている。

〜2018年11月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

画像1


有楽町マリオンの前にひっそりとある歌碑。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?