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(第19回) 仙台・広瀬川の思い出

 コロナ禍の合間を縫うように仙台を訪れた。旅人を自認する割には、通過することは多かれど、仙台に宿泊するのははじめてのことだった。東北の雄藩に連なる仙台は、あまりにも大都市すぎて、自分のようなよそ者が「把握」しようとするには手には余るような気がして、いままでなんとなく敬遠していた。

 今回、ある本を読んで気が変わった。作家・佐伯一麦氏が、生まれ故郷である仙台の川を歩き、「広瀬川周辺」の景色を生き生きと描き出す連作小説『川筋物語』だ。

 目次には、流域の地名が並ぶ。面白山、作並、秋保(あきう)、愛子(あやし)、牛越橋、琵琶首、花壇、鹿落坂(ししおちざか)、大年寺、閖上(ゆりあげ)。

 その地の人間にしか読めない「曰く」のありそうな地名に野次馬の血が騒ぐ。小説内に描き出された情景のなかのこんな記述に目が止まった。

「おまえみたいな悪い子を生んだ覚えはない。まったぐあんどき牛越橋の下から、こんな子拾ってくんでねがった」

 子どもが親から投げかけられる「からかい」を含んだ叱責の類である。私なども幼少の頃はよくやられた。最近はこうした露悪にはうるさい世情だが、古い世代ではよく聞く、「川辺や橋の下にまつわる」思い出話である。

 この話を読み、なぜか急に広瀬川に行きたくなった。単なる観光の名所が、仙台人の心と密接に結びついている何かになったような気がした。

『青葉城恋唄』は、仙台を代表する歌になったのかもしれない。最初は、1978年に地元の歌手、さとう宗幸が歌ったローカルソングに過ぎなかった。

 この歌は、さとうがDJをしていたFM番組(NHKローカル)にリスナーが寄せた詩をもとに、さとうが「即興で」作り上げた曲だった。当初は地元のみの反響だったが、当時発生した宮城県沖地震の復興に際し、この歌が頻繁にニュースに載ることとなり、じわじわと全国に浸透していった。

 しみじみとしたいい歌だ。季節の移り変わり、思い出、七夕、失恋、せせらぎ。広瀬川の美しい情景もさることながら、仙台人のこの川に思いを託す「習性」のようなものが、広大な川の流れのようにゆっくりと伝わってくる。

 土地勘のない仙台市内を闇雲に歩き、河川敷の評定河原公園に着いた。

 この周辺は川が街を縫うように蛇行し、土地土地のさまざま表情を見せている。伊達政宗ゆかりの瑞鳳殿、仙台城(青葉城)跡、東北大学も対岸の山上にあり、前述の本の目次で見かけた琵琶首、花壇などの地もすぐそばだ。その地名で勘のいい方はお気づきだと思うが、このあたりは古くは仙台藩の処刑場があり、歴史的にも深みを感じるエリアだ。

 コロナ禍の影響もあり、いまは少しさびしい感じだが、このあたりは人が集まるにぎやかな場所であったという。昭和の始め頃には、動物園(仙台市動物園)もあった。さらにおもしろいのは、この公園内にいまもある評定河原球場。ここは、「打撃の神様」といわれた巨人軍・川上哲治が、プロ野球史上初の1イニング2本塁打を記録した場所なのである。

 その偉業にはこの球場の小ささも手伝った。中堅約91メートル、両翼82メートルと、現代の球場に比べると格段の狭さで、過去、1試合9本の本塁打が飛び交った記録もある。

 1950年に宮城県営球場(現・楽天生命パーク宮城)が開場するまで、立派な仙台のメイン球場であった。

 日暮れ頃、牛越橋を歩きながら考える。

「橋の下から拾ってきた子」

 私自身が親に言われ、半泣きになっていた当時の感情が、じんわりと思い出される。改めて考えてみると、やはりひどい冗句だなと思う。

 だが、寂れた村外れの橋ではなく、さまざまな「楽しみ」で囲まれたこんな橋の下のおとぎ話なら、話は違ってくる。この川にまつわるすべての話が、いい思い出になる。

〜2021年3月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂


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七夕花火、鮎釣り、灯篭流し、芋煮。広瀬川では市民のさまざまなイベントが行われる。

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いくつもの思い出を育んできた評定河原球場。


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