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(第16回) 「あずさ2号」と信濃大町の立ち食いそば

 登山で有名な出版社「山と渓谷社」の創業90周年を記念した上映会の案内があった。神保町のミニシアターで「山岳映画」の大特集が組まれるという。井上靖原作『氷壁』なども上映される。たのしみな催しだ。

 もうだいぶ前のことになる。一時山岳小説にのめり込んでいた時期があった。厄年を迎えた、心身ともの「倦怠感」から、あらゆることに手がつかず、ただ「非日常」の感覚だけを追い求め、ベッドの中で、(過酷で尊くてどこか夢の中の話のような)山岳小説をいつまでも貪り読んでいた。

 私にはたいした登山経験はない。友人に誘われ、二度ほど秋の北アルプスを訪れた。靴だけを無理矢理のように買わされ、リュックやトレッキングポールは友人のお古を与えられ、運転手の代わりに連れ回された。そんな少ない経験だが、山のキツさ、気高さ、非情さ、それは一種独特の世界だということがわかった。

 山岳小説の名手と言えば、まず新田次郎の名があがるのかもしれない。山中での事故を扱ったもの、不屈の登山家に関するもの、山男の友情や葛藤などを扱ったもの、多くの作品を夢中で読んだ。

 作品のなかでよく出てきたのが中央本線だ。松本駅、信濃大町駅など、北アルプスの入り口に当たる駅に、(ふだんはサラリーマンである主人公が)仕事の都合をつけ、夜行や始発の列車で向かう姿が、情緒ある文体で描かれていた。

 どの作品のどの部分にあったのかは覚えていない。また、こうなると本当にあったのかも定かでない。だが、ある場面が私の強烈な思い出となっている。それは、小説の主人公が中央本線の信濃大町駅で立ち食いそばを食べる場面である。それがなんともうまそうで、それはいつしか私の中で、ここにあるのは(山男を癒やす)「日本一うまい立ち食いそば」だという「事実」に変わった。

 ある日、信濃大町駅まで立ち食いそばを食べに行った。登山のついでではない。わざわざ駅まで食べに行ったのである。

 あいにくの悪天候だが、遠くには靄のかかった北アルプスの雄姿が見える。駅のコーナーの小さなカウンターで真っ黒いつゆのそばを食べた。やっぱり、自分のイメージ通り日本一おいしかった。いま自分の足元は取材用スニーカーだが、これが登山靴だったら、もっと塩分が心地よく染み、生卵の滋味がありがたく思えるのかもしれない。

 熱々のそばを躊躇せずガツガツと流し込み、給水器の水を一気に飲み干す。日本一うまい立ち食いそばを食いにくる。それは嫌になるぐらい男臭い行為だなと自分でも思った。

 女は8時ちょうどの(新宿発)あずさ2号に乗る。中央本線の行き先は、まだ春の浅い信濃路。いつか男と行くはずだった場所である。

 懐かしの曲『あずさ2号』は、ある恋をあきらめた女の気持ちを、男性デュオが歌い上げヒットした。女の思いの先にあるのは(詳細はわからないけど)どうやら融通の効かなそうな青春野郎の面影。歌詞中の女性の女らしさがわかればわかるほど、この中央本線の男臭さが、苛立つほどに匂う。

 「春まだ浅い信濃路」を思う女と「立ち食いそばの温もり」に溺れる男。

 現在のあずさ2号はもう8時発じゃないし、行き先も松本止まりだ。だけど、『あずさ2号』がかかるたびに、私はこの、ズック靴で立ち食いそばを味わった時の「情景」を思い出すのである。

 〜2020年11月発行『地域人』(大正大学出版会)に掲載したコラムを改訂

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信濃大町駅の立ち食いそば。

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